東京科学大学(Science Tokyo)は、旧東京工業大学と旧東京医科歯科大学の統合を経て、新たな研究推進の仕組み「Visionary Initiatives(VI:ビジョナリーイニシアティブ)」を2025年4月に導入しました。VIは「善き未来」の実現に向けて、現行の医学、歯学、理学、工学、情報学、リベラルアーツなど分野別縦割りの研究体制を分野横断型へと大きく変革する仕組みです。近年、「分野横断」「社会課題解決」といった言葉を耳にする機会が増えましたが、その一方で、VIとは何を目指しているのか、従来の研究活動と何が違うのか、なぜ今必要なのかという意義を十分に伝えられているとは言えません。
現在、VI推進に携わる古川哲史(ふるかわ・てつし)理事・副学長(イノベーション担当)も、当初はVIに懐疑的でした。しかし議論を重ねる中で、その意義を理解し、現在は推進の立場に立っています。古川理事は、なぜ考えを変えたのでしょうか。その変化をたどることで、VIが目指す姿も見えてきます。
「専門性がなければ、連携も成立しない」―反対から始まったVIとの向き合い
古川理事は、最初はVIに反対だったのはなぜですか?
古川 実は、VIの議論が始まった頃、私は反対だった、というと言葉は強すぎるかもしれませんが、懐疑的な立場でした。理由はシンプルで、「ディシプリン(学問領域)」の弱体化を懸念したからです。
研究はそれぞれの専門分野の上に成り立っています。専門性があってこそ、新しい知識が生まれます。もしディシプリンそのものが弱まってしまったら、研究の基盤が失われるのではないかと感じていました。つまり、私は「ディシプリンがなければ、横の連携も成立しない」と考えていました。
ところが議論を重ねる中で、VIが目指しているのは学問分野を軽視することではなく、それぞれの専門性を維持したまま、新しい連携を生み出すことであり、この取り組みはかえって専門性の強化にもつながることが見えてきました。例えば、数理学のベイズ統計と呼ばれる理論がAI開発に利用されましたが、AIの発展からPAC-ベイズ理論などが生み出され「ベイズ統計学の第二の黄金期」を迎えていると言われています。このように、専門的研究と学際研究が双方向性に強化しあうという考えが腹落ちしたとき、考え方が180度変わりました。
現代の社会課題は、一つの学問分野だけでは解決できない
なぜ今、分野横断的な連携が必要なのでしょうか?
古川 COVID-19の経験も大きかったと言えます。私自身も、パンデミックを通して、現代のサイエンスが大きく変わっていることを実感しました。
まず、一つの分野だけでは課題を解決できません。たとえば、COVID-19克服は医学だけ、感染症学だけ、免疫学だけでは無理で、情報科学や工学、社会科学など、多くの知識が必要でした。次に、基礎研究と応用研究の距離が非常に近くなりました。mRNAワクチンはその代表例です。まだ基礎研究の段階にあると考えられていたmRNAワクチンが、短期間で社会実装につながりました。そしてもう一つが、オープンサイエンスです。ウイルス種、遺伝子型、3次元構造などは、研究者が研究成果やデータを共有し、国や組織を越えて協力することで短期間に解明されました。
こうした変化を改めて思い起こしたとき、従来の枠組みだけでは対応できない課題が増えていると感じました。だからこそ、多様な知識を結び付ける仕組みが必要だと思うようになりました。
ただし、異なる分野の研究者を集めたり、優れた研究や多様な知識を組み合わせただけでは十分ではありません。私たちがどのような未来を実現したいのかというビジョンがあってこそ、それぞれの専門性を結び付け、知を社会変革の力に変えることができるのだと思います。
「知の創造」を「知の価値化」へつなぐ
VIは、大学の中でどのような役割を果たすのでしょうか?
古川
私は、VIを、どのような未来を実現したいのかというビジョンを起点として、「知の創造」から「知の価値化」へつなぐ仕組みだと考えています。大学の重要な役割は、新しい知識を生み出すこと、knowledge creation(知の創造)だとされています。しかし、社会課題が複雑になる中で、その知識を社会に届け、新しい価値へと結び付けること、value creation(知の価値化)も求められるようになってきました。
もちろん、知の価値化だけを重視すればよいわけではありません。価値創造の土台には、必ず知の創造があります。さらには、価値創造が先に起き、後から知の創造をもたらされることも少なくありません。
例えば、18世紀後半にジェームス・ワットが蒸気機関を実用化したとされていますが(異論もありますが)、その後19世紀になってからその仕組みを体系的に説明する熱力学という学問が誕生しました。また、19世紀にメンデルが遺伝の法則を示しましたが、その実態がDNAの2重らせん構造やセントラルドグマであることが明らかとなったのは20世紀になってからです。だからこそ、基礎研究者と応用研究者が協働し知と価値の相乗的な創造が学問の確立も促進することが期待され、そのための場としてVIがあるのだと考えています。
Science Tokyoには、理工学、医歯学、さらには人文社会科学まで、多様な知が集まっています。その強みをさらに生かしていくことが今後の重要な課題です。
「大学全体」で取り組む意義
VIは、従来の研究プロジェクトと何が違うのでしょうか?
古川 私は、大学全体で取り組んでいる点が、他のプロジェクトと大きく異なっていると思います。研究プロジェクトというと、特定の研究者や研究グループが参加することが一般的です。しかしVIでは、大学に所属する研究者が、それぞれの専門性を持ちながら8つのいずれかのVIに参画しています。
もちろん、今の段階では具体的な成果が数多く生まれているわけではありません。むしろ、研究者同士が出会い、議論し、新しい可能性を探り始めた段階です。しかし、新しい研究や価値は、こうした対話の中から生まれるものです。私は、この大学全体の動きそのものに大きな意味があると考えています。
Science Tokyoの挑戦には、どのような意味があると思いますか?
古川 私はScience Tokyoを「ファーストペンギン」だと思っています。ファーストペンギンとは、群れの中で最初に海へ飛び込むペンギンのことです。そこにはリスクもありますが、誰かが勇気をもってコンフォート・ゾーンから飛び出し、最初に挑戦しなければ新しい道は開けません。
もちろん、分野を超えた研究や社会課題に取り組む大学は国内外に数多くあります。しかし、Science Tokyoでは、大学全体の研究者が8つのVIのいずれかに参画し、それぞれの専門性を持ちながら未来の課題について考える仕組みをつくろうとしています。私たちは、その挑戦を大学全体で進めている点に特徴があると考えています。
Science Tokyoは、旧東京工業大学と旧東京医科歯科大学という、それぞれ異なる強みを持つ大学が統合して生まれました。この統合の意義は、単に組織を一つにすることではありません。異なる知を結び付け、善き未来を創造する今までにない新しい大学の姿を示すことにあると思っています。
もしこの取り組みがうまく機能すれば、大学の新しいあり方の一つのモデルになるかもしれません。その意味では、一大学だけの挑戦ではないという意識を持っています。
多様な知が出会うとき、何が生まれるのか
VIを通じて、どのような未来を伝えたいですか?
古川
キーワードは「多様性」と「期待感」だと思います。多様性というと学問分野の違いを思い浮かべるかもしれませんが、より重要なのは、価値観・視点の多様性だと思います。研究というものは、最初から答えが見えているわけではありません。異なる価値観や視点が出会い、試行錯誤を繰り返す中で、新しい発見・発明が生まれます。だから私は、VIを通じて「何かが起こりそうだ」という期待感を感じてもらいたいと思っています。
まだ見ぬ未来に向かって、多様な知がつながり始めています。その動きを感じてもらい、未来の社会づくりに共に参加してもらえたらうれしいですね。
取材日:2026年5月28日(大岡山キャンパスにて)
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