心の原点を探る科学が拓く、心の豊かさと善き生活を育む未来

2025年12月2日 公開

健やかなくらしを可能にする技術を生み出し、豊かで活動的な人生をおくる

黒田公美 Well-Vitality Science プログラム・ディレクター

東京科学大学(Science Tokyo)は、「『科学の進歩』と『人々の幸せ』とを探求し、社会とともに新たな価値を創造する」を大学のMissionとして掲げ、その実現に向けた分野横断・融合型の研究体制「Visionary Initiatives(VI)」を2025年に始動させました。現在、6つのVIが「善き生活」「善き社会」「善き地球」という3本柱を軸に、社会変革の姿と共通ビジョンをそれぞれが描き、未来を切り拓く挑戦をすでに始めています。

今回はその一つ、 Well-Vitality Science「各人が精神的に豊かな多様な人生を実現する」のプログラム・ディレクター(PD)を務める、生命理工学院の黒田公美教授に、脳科学、老年学、スポーツ科学をいかに他分野と融合し、人々が自分らしい「善き生活」を実現できるよう支援していくのかについて、神経科学者の視点から語ってもらいました。

宇宙物理学から脳科学へ——親子関係に宿る心の原点

研究の原点となった想いや、「研究成果が社会に届く」ことについてどう感じていますか?

黒田 もともとは宇宙物理学を学び、その後に医学へ進みました。精神科での研修中、摂食障害やうつ病の患者さんの多くが親子関係を語るのを聞き、親との関係が心の健康に深く関わることを実感しました。そして、自分自身が母になりたいという思いも重なり、親子関係の科学的解明を志しました。

現在は、哺乳類の親子関係がどのような脳内メカニズムで形成されているのかを研究しています。まず、子育てに必要な脳部位を特定し、その部位でどの神経細胞が子育てに重要な役割を持っているかを明らかにしてきました。また、子ども側の脳内メカニズムについても、愛着行動(親を慕い後を追う行動)の一種である輸送反応(親に運んでもらうとおとなしくなる現象)を人間の赤ちゃんではじめて証明し、その仕組みを研究しています。

2025年2月には、赤ちゃんの寝かしつけを支援するスマートフォンアプリ「SciBaby ↗」の無償一般公開をしました。「赤ちゃんが泣き止まない」「寝かしつけに困っている」など、育児に悩む親を支援する取り組みの一つです。SciBabyの取り組みは、単なる寝かしつけアプリの開発にとどまらず、乳幼児の生体情報ビッグデータと、機械学習(AI)を組み合わせた新しい診断補助システムの実現を目指しています。家庭のWi-Fi経由でデータを自動集積し、親子と小児科医療を科学的に支援するシステムの構築です。

親子関係は基礎研究であっても成果を実社会にダイレクトに反映できる稀な分野だと感じています。例えば、2022年に「赤ちゃんの寝かしつけ方」に関する学術論文を発表した際、翌日にはSNSで「5分間赤ちゃんを抱っこして歩き、8分間座って待つ方法で寝かしつけできた」という投稿が上がっていました。研究者として、こういう反響はすごく嬉しいです。自分の研究が直ちに社会に役立つことを実感できる瞬間でした。

黒田公美 Well-Vitality Science プログラム・ディレクター

親を支える社会から始まる、子どもの心の豊かさ

先生の研究とVIとの関連性について教えてください

黒田 子どもは、育ちの環境に適応しながら成長します。両親や祖父母など、主要養育者との関係は、環境の中でも特に重要な要素です。例えば、虐待を受けると、心やからだの病気にかかりやすくなる場合があります。

一方で、親が子どもを大切に育てるには、親自身が社会の中で大切にされることが前提です。また、保育士や教師、小児科医など子どもに関わる仕事をする人々も、その仕事が自身の人生のなかで満足できるものでないと、子どもに優しく接することはできません。家族、地域、社会が一体となって子どもを見守り支えることがWell-Vitality Scienceの核にあります。わたしたちが担うのは、その基礎をなす「親子関係と心の健康」を担う基盤研究です。

PDとして最初に達成したい目標は何ですか?

黒田 PDの役割は、VI全体を盛り上げて、共同研究に発展させ、どんどん成果が上げられるようにする触媒の働きをすることだと思います。研究を発展させるには、時間的・予算的な余裕が欠かせません。例えば、研究や事務的な作業のサポートをする研究補助員の雇用など、円滑な研究ができるエコシステムを構築し、研究者がのびのびと研究できるようにする環境の整備を最初に達成したいと思います。また、紙ベースで行われている非効率な事務慣行を見直し、研究時間を取り戻す仕組みづくりも、早期に着手すべき課題だと認識しています。

分野融合と社会連携で、心の科学を次のステージへ

研究分野の連携や、企業・外部機関との協働は、どのように進めていこうと考えていますか?

黒田 VIの4つの研究テーマの一つ「こころの健やかさと共に生きていく豊かな生活の創造」では、教育・文化、住環境、社会制度など、人と社会とのインターフェースを探る分野の研究者が集結し、人のつながりを支え、孤立を防ぐ社会構造を科学的に設計することを目指しています。人とのつながりの中で、個人が自分の思うように生きられることは、根源的な人間の幸せを実現することになります。

「脳の個性と特性を理解し人の可能性を拡大」というテーマでは、脳の働きを解明し、実際のくらしに生かす技術を研究します。脳科学の進歩は日進月歩です。脳を操作して行動を変える、脳で感じていることを外から読み出す、など以前は想像の領域だったことが、現実となりつつあります。こうした先端技術を人間社会に実装するには、法・倫理との丁寧な合意形成が不可欠です。研究者個人ではなく学術コミュニティとして社会に語りかけながら、未来の人間社会のあり方をともに考えていく必要があります。

「楽しく老いる生涯をすべての人に」のテーマでは、老化防止技術、薬の開発を通して心身の健康を維持する方法を研究していきます。メンバーには2016年ノーベル生理学・医学賞受賞者の大隅良典栄誉教授も参加しており、卓越した基礎研究力と多様な実践が融合する研究体制を築いています。

最後に、「心身を育む未来型スポーツ環境の整備」のテーマでは、パラリンピックやオリンピック関連組織、海外の研究機関とも連携して人間の身体技術の可能性を高めます。またスポーツ選手に限らず、すべての人にとってからだの健康はこころの健康の基盤です。生活や加齢にあわせてからだは変化しますから、自分のからだのうまい使い方を常に学んでいかなければ、その積み重ねが老化の加速にもつながってしまいます。この分野では、先端技術を使って、膝、顎、指、体幹、代謝など、さまざまなからだの部位を上手に使う技術や、障害者や高齢者を含むすべての人が自分に合った運動の研究によって全身の健康の実現を目指します。

わたし自身の研究を例にとると、ベビー用品メーカーと「SciBaby」をスマート育児家電に応用する共同研究を進めてきました。また児童虐待防止の観点では、厚生労働省やこども家庭庁、さらに法務省とも連携してきました。VI内の他の研究者もそれぞれの分野で積極的に産学官の連携を拡大し、研究成果を社会に還元していくことを目指しています。

Visionary Initiative: Well-Vitality Science 「各人が精神的に豊かな多様な人生を実現する」

Well-Vitality Scienceでは、健やかなくらしを可能にする技術を生み出し、豊かで活動的な人生をおくる未来を目指します。

こころの健やかさと共に生きていく豊かな生活の創造
・人のつながりを支え孤立リスクを回避する総合知が結集
・未来社会を築く子ども支援と教育環境の革新
・こころの豊かさと多様性を育む情報時代の文化・住環境・地域システム・情報技術を確立

脳の個性と特性を理解し人の可能性を拡大
・脳とこころの関係の科学的解明
・潜在的な脳の力を引き出す革新技術の実現
・認知症・神経変性疾患の予防と根治療法の発見
・五感の働きを支え、誰もが快適なくらしを実現
楽しく老いる生涯をすべての人に
・ヒトが老いるメカニズムを解明し、老化予防技術や薬を開発
・機能不全となった分子や細胞をリニューアル
・細胞の若返り技術を開発
・臓器間の連携を解明して、からだ全体の健康を保持
心身を育む未来型スポーツ環境の整備
・エビデンスに基づいて薬のように個別に処方された運動によって健康が増進
・技術と融合した未来型スポーツが普及
・リアルな空間でも仮想空間でも体を育む暮らしの実現

25年後の未来を見据え、知を次世代へ

研究を通じて、どんな未来を描き、何を次世代へ伝えたいですか?

黒田 異なる分野の研究者が共通のビジョンのもとに結集することは、各研究者が自らの研究をこのビジョンとどう結びつけるかを考えるきっかけになります。VI に参加することで、研究者は、自身の研究が未来の人類の幸せのために、どのように貢献できるかを改めて見つめ直します。きっと、今まで気づかなかった応用の可能性や、研究の方向性を再考する機会が増えるでしょう。
我々のVIが見据えるのは、25年後の未来です。多くの研究者にとって、それは次世代のために自分ができることを考える時間でもあります。自らの知を次世代へつなぐ、その思いが「善き未来」を形づくる原動力になると信じています。

取材日:2025年10月21日/すずかけ台キャンパス黒田研究室にて

プロフィール

黒田公美(くろだ・くみ)

東京科学大学 生命理工学院 教授

黒田公美教授

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