東京科学大学(Science Tokyo)は、「『科学の進歩』と『人々の幸せ』とを探求し、社会とともに新たな価値を創造する」を大学のMissionとして掲げ、その実現に向けた分野横断・融合型の研究体制「Visionary Initiatives(VI)」を2025年に始動させました。現在、6つのVIが「善き生活」「善き社会」「善き地球」という3本柱を軸に、社会変革の姿と共通ビジョンをそれぞれが描き、未来を切り拓く挑戦をすでに始めています。
今回はその一つ、Resilience-Tech Society 「災害・パンデミックにレジリエントな社会を実現する」のプログラム・ディレクター(PD)を務める、大学院医歯学総合研究科の石野智子教授に、頻発する災害、新型コロナやマラリアなどの感染症に対してレジリエントな社会をいかに構築するかについて語ってもらいました。
科学への探究心と、人を思う気持ちの交わる場所で
感染症の中でも、なぜ熱帯病の研究を選んだのですか?
石野 大学時代は、薬学系の研究室で、体がどうやって再生したり、病気から身を守ったりするのかといった生命の仕組みを探る基礎研究を行っていました。その傍らで、アジアの国々を訪れるスタディツアーに参加し、貧困の現場に目の当たりにしながらも、子どもたちの笑顔に心惹かれる経験を重ねました。そうした現地での経験を通じて、アジアのために何か貢献したいという気持ちが強くなりました。国際的なボランティア活動を行う機関(NGOなど)や国際協力機構(JICA)への就職も考えましたが、基礎研究にも強い魅力を感じていました。そこで、その両方の思いを活かせる道として熱帯病の研究を選び、博士課程の間に、3ヶ月の熱帯病研修を受講しました。
現地で人々を支えたいという思いと同時に、科学の力で生命の成り立ちを解き明かしたいという気持ちもありました。「証明できること」にこだわりがあるわたしは、学位を取得した頃、マラリア原虫に対して逆遺伝学的なアプローチが導入されたことに興味を持ちました。通常の遺伝学は、「性質から遺伝子を探す」のですが、逆遺伝学は「遺伝子から性質を調べる」という逆転の発想で生命の仕組みに迫る学問です。偶然にも、この逆遺伝学を用いてマラリア研究を行っている、当時国内唯一の研究室に巡り会いました。学位取得後に専門分野を変えるのは珍しいことですが、そこでポストドクターとしてマラリアの研究をスタートさせ、その後、フランスのパスツール研究所における留学経験を経て、マラリアの研究を今も精力的に続けています。
マラリアは、蚊を介してマラリア原虫が体内に侵入することで感染します。皮内に打ち込まれた原虫が、血流を利用して最初に感染するのが肝細胞です。マラリア原虫はヒトの肝細胞に特異的に感染しますが、どのような分子がどのように働いているのかを明らかにする研究に注力しています。顕微鏡下に見える10ミクロン程度の原虫の動きを追いながら、生き物の神秘を感じ、研究の面白さを実感します。けれども、そうした研究の背後には、今も世界で年間約60万人がマラリアで命を落とす現実があります。その対策に貢献することを肝に銘じて、研究室の学生や研究スタッフと協力して研究を進めています。
Science Tokyoは、西アフリカ・ガーナ共和国の野口記念医学研究所と、長年に渡り新興・再興感染症の国際共同研究を重ねてきました。マラリアの研究に関しては、発症を決定づけるヒト側の要因、そしてマラリア原虫側の要因を探ろうとする研究をスタートさせています。また、流行地由来の原虫株の解析を通じて、感染流行地における原虫感染のメカニズム解明に取り組んでいます。
人と科学の力を結集し、危機に強い社会をつくる
Resilience-Tech Societyを率いる立場として、何を目指していますか?
石野 わたしがPDを務めるVI「Resilience-Tech Society」は、避けられない自然災害やパンデミックが起きたときに、環境やライフラインの復旧、医療の提供など、社会に必要なものを確実に行き届かせるシステムの構築を目指しています。その中でも、わたし自身は感染症の領域に最も貢献できると考えています。感染症には、新型コロナ感染症のようにいきなり出現する新興感染症と、マラリアのように長らく人類を苦しめている再興感染症があります。いずれも社会やわたしたちの日常生活を揺るがす重要な課題ですし、人々の移動が活発な現代において国別に対応することが困難なのは明白です。ガーナ大学の野口記念医学研究所内に設けられた研究拠点、さらにこれまでに構築した人との繋がりを活かして、現地での情報収集や人材育成を進めるとともに、それらの取り組みを通じてVIの理念と成果を世界へ発信していきたいと考えています。
協働することで、科学はどんな可能性を広げますか?
石野 現在は、主要な支援国による国際協力資金の縮小により、災害や感染症対応に向けた国際協働の資金が激減しています。その結果、アフリカへの資金援助が減少し、必要な人々にHIVの治療薬でさえ届けられなくなるなど、深刻な事態が起きています。ただ、科学者がやるべきことは何ら変わっていません。結局、科学も国際協働も人がつくるものです。だからこそ、人とのつながりをさらに強固にして、この難しい局面をサポートし合いながら乗り越えることが重要だと思います。
また、異分野の研究者との協働も、研究の新たな可能性を切り拓くうえで欠かせません。異分野の研究者と議論することで、発想の転換に繋がったり、自分の専門技術が思いがけない形で社会課題の解決に役立つことに気づかされることがあります。わたし自身がそれを強く実感したのが、肝臓チップ(ヒトの肝臓の構造を再現する小型のデバイス)の開発を進めていた高山和雄(たかやま・かずお)教授との出会いでした。高山先生は当時、ウイルスの感染を抑える方法の開発を目的に、デバイスの開発を他大学で行っていました。感染症という共通の課題に向き合っていることがわかり、すぐに強い協働関係が生まれました。現在は、高山先生もScience Tokyoに移籍し、VIの一員として共に研究を進めています。高山先生のこれまでの知識と経験を提供していただき、マラリア原虫のヒトへの感染の最初のステップである「肝細胞に到達・感染する」仕組みをより詳細に解析できるようになりました。さらに、新たな感染阻止ワクチンの開発へと展開できると期待しています。こうした異分野の知見を取り入れることで、感染症研究に新しいアプローチを生み出すことができたのは、非常に意義のある成果だと感じています
Visionary Initiative: Resilience-Tech Society 「災害・パンデミックにレジリエントな社会を実現する」
Resilience-Tech Societyでは、国際的協働により自然災害やパンデミックに備え、安心して暮らせる生活基盤を整えることを目指します。
・自然災害の発生メカニズムの解明
・災害被害を最小限にするまちづくり
・災害に備えた代替ライフラインの確保とレジリエントな生活基盤の構築
・災害時にすべての人に医療・支援が届くネットワークの形成
・地域や国を超えた専門職・行政の連携による迅速な支援を確立
・地域医療との連携によりすべての人の安全確保を実現
・世界中の人々の基本的な暮らしが守られる柔軟な支援体制の整備
・新興・再興感染症に対して基礎研究を基にした予防、治療法開発と診断法の確立
・パンデミックに備えた医療体制の強化
・最新研究成果・感染症流行情報の国際共有による協働関係の構築
・社会活動継続のための感染拡大抑制戦略の提示
・気候変動などの要因を取り入れた、自然災害・感染症流行の予測と精度の向上
・災害被害・感染症の蔓延を最小化する社会基盤の構築と、行動指針につながる教育・文化づくり
・地域保健との連携により、必要な予防法・知識の浸透
未来の災害に立ち向かう、科学の新しいかたち
災害に負けない社会をどうやってつくっていくのですか?
石野 日本は、自然災害のリスクが世界で3番目に高い国と言われています。しかし、自然災害やパンデミックを完全に予期し防ぐことはできません。そこで、わたしがPDとして掲げる遠い未来の目標は、いかなる状況であっても、人々の生活、命、尊厳を守ることです。Resilience-Tech Societyの「レジリエンス」という言葉は、聞き馴染みがないかもしれませんが、復活力、復旧力、柔軟性という意味があり、わたしは、「優しさ」を含んだ言葉だと感じています。人々がレジリエンスを持つには、どんな状況でも支え合える強い備えが必要で、これを科学の力を通じて実現したいと考えています。とはいえ、そうした備えも一朝一夕には完成しません。自然災害から学び、知見を集積し、災害に強い社会構造を少しずつ整備していくというサイクルを何回も重ねていくことが大切です。その積み重ねによって、災害やパンデミックに対して復旧力の高い社会の実現を目指します。
新型コロナ感染症の経験からも、新しい課題が浮かび上がっていると考えています。例えば、噂やフェイクニュースの問題です。いかに効果的なワクチンができたとしても、不安感が先行すれば人々には届かなくなります。不安を軽減し、正しい情報を隅々まで届けるための科学的アプローチを考えていくことも重要な課題の一つです。
科学の未来に、どんな希望を抱いていますか?
石野 科学というと便利さや新しさに目が向きがちです。しかし、災害から日々の生活を守り、安心感や尊厳を守るといった、見過ごされがちだけれど公益性の高い領域で科学と社会の橋渡しをしていきたいと考えています。グローバル化がさらに進む現代では、世界規模での連携と支援の仕組みを築くことも重要です。国際的な支援体制が変化する中で、一部の地域や機関の動向が世界全体に影響を及ぼすことがあります。そうした状況に対し、研究・技術・人材の面から安定的に支える枠組みを構築することがわたしたちに求められています。その一環として、国籍を問わず世界で活躍できる人材の育成にも力を入れています。「いま深掘りしている研究が、地球を少し良くすることにいつかはつながる」という実感を、若い研究者や研究者の卵たちにVIを通して見いだしてもらいたいと思います。
「レジリエンス」はもともと、心理的な復旧力を指す言葉です。わたしはこの言葉に込められた、復活、復旧、柔軟性という多面的な意味を大切にしています。災害による被害をゼロにすることは難しいかもしれません。けれど、被害を軽減し、人々の生活や命、尊厳を守ることは、科学を結集すればできると信じています。科学というと堅く感じられるかもしれませんが、科学がやさしく人を支える――そんな温もりのある未来を、「レジリエンス」と呼べる社会を目指したいと思っています。
取材日:2025年10月28日/オンラインZoomにて
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