ポイント
- 成長期(生後3~6週齢)に軟らかい餌で育てたマウスでは、咀嚼とは直接関係のない運動機能やバランス能力が低下することを明らかにしました。
- 軟らかい餌で育てたマウスでは、小脳のプルキンエ細胞集団が同じタイミングで活動する「同期性」が低下していることを発見しました。
- 軟らかい餌による影響は、餌を与える時期や期間によって異なることから、成長期に影響を受けやすい時期が存在する可能性が示されました。
- 光遺伝学によりプルキンエ細胞の同期性を高めると運動機能が改善し、成長期の噛む刺激が小脳の神経活動を介して運動制御を支えることが示されました。
概要
東京科学大学(Science Tokyo)医歯学総合研究科 認知神経生物学分野の上阪直史教授と咬合機能矯正学分野の小野卓史教授の研究グループは、マウスを用いた研究により、成長期に軟らかい食事を摂取すると、咀嚼とは直接関係のない運動機能やバランス能力が低下すること、また、その背景に小脳[用語1]のプルキンエ細胞[用語2]集団における活動の「同期性[用語3]」の低下があることを明らかにしました。さらに、光遺伝学[用語4]を用いてプルキンエ細胞の活動の同期性を高めることで、低下した運動機能が回復することを見いだしました。
本研究成果は、8月13日(現地時間)付で「Brain Research Bulletin」誌のオンライン版で掲載されました。
背景
食べ物を噛むこと(咀嚼)は、単に食物を細かくするだけでなく、顎や口の周囲から脳へ繰り返し感覚情報を送り込む、日常的な感覚運動経験です。近年、食品の加工・調理技術の発達に伴い、噛む回数の少ない軟らかい食事が増えています。
これまでの齧歯類を用いた研究では、軟らかい餌で育てると学習・記憶能力が低下し、海馬や大脳皮質の構造が変化することなどが報告されてきました。しかし、これらの研究の多くは認知機能や神経細胞の形態に注目したものであり、噛む刺激の減少が、運動の制御を担う神経回路の働きにどのような影響を及ぼすのかは、ほとんど分かっていませんでした。
こうした背景から、発達期の咀嚼に伴う感覚運動経験が脳の発達や機能に与える影響を明らかにすることは、以下の点で重要であると考えられます。
- 発達期における咀嚼刺激の意義の理解:噛む刺激の減少が、口腔機能にとどまらず、脳の発達に及ぼす影響を明らかにすること。
- 神経回路レベルでの仕組みの解明:咀嚼刺激の減少による行動の変化をもたらす神経回路の働きを明らかにすること。
- 介入・予防への応用:影響を受けやすい時期や回復の可能性を明らかにし、食育や歯科的介入の科学的根拠につなげること。
本研究では、運動の調節やバランスの維持を担う小脳に着目し、離乳直後から軟らかい餌で育てたマウスを用いて、行動と神経活動の変化、および両者の因果関係を解析しました。
研究成果
本研究グループは、生後3週齢(離乳直後)から6週齢まで、標準的な固形飼料と栄養組成は同一で、物理的な硬さのみが異なる粉末飼料(軟食)を与えて育てたマウスを解析しました(図1)。その結果、軟食で育ったマウスでは、回転する棒の上でバランスを保つ課題(ロータロッド試験)の成績が低下したほか、遊泳時に体を水面と平行に保つことが難しくなり、歩幅も短くなるなど、咀嚼とは直接関係のない運動機能やバランス能力の低下が認められました。一方、飼育期間中の体重増加には標準的な固形飼料で育てた群との差がみられず、これらの変化は栄養状態の違いだけでは説明しにくいことが分かりました。
発達期の「噛む刺激」が小脳の同期活動を育て、運動機能を支える。離乳直後の軟食は、プルキンエ細胞集団の同期性を低下させ、バランス・運動機能を弱める。成長期の咀嚼にともなう感覚運動経験は、小脳の集団活動のタイミングを育て、運動とバランスの発達を支える。
次に、小脳のプルキンエ細胞の活動をカルシウムイメージング[用語5]により記録したところ、軟食で育てたマウスでは、多数のプルキンエ細胞が同じタイミングでそろって活動する「同期性」が低下していました。一方、個々の細胞の活動の大きさ、頻度、持続時間には差がみられず、神経細胞の活動性そのものではなく、集団として活動するタイミングが選択的に乱されていることが示されました。
さらに、同じ軟食を6~9週齢に与えた場合には、同期性の低下は検出されず、運動機能への影響も限定的でした。また、より短期間(3~4.5週齢)の軟食でも、明らかな変化は認められませんでした。これらの結果から、噛む刺激の減少が脳に及ぼす影響は、その時期や期間に依存する可能性が示されました。
最後に、同期性の低下が運動機能の低下を引き起こしているのかを検証するため、光遺伝学を用いて軟食で育てたマウスのプルキンエ細胞を一定のリズムで活性化し、集団活動の同期性を高めました。その結果、低下していた同期性が回復するとともに、ロータロッド試験の成績や遊泳時の姿勢が改善しました。興味深いことに、光刺激を行ったのは3日間の試験のうち2日目のみでしたが、その改善効果は刺激を行わなかった3日目にも持続しました。
以上の結果から、成長期の咀嚼に伴う感覚運動経験が、小脳における神経細胞集団の活動タイミングの成熟を通じて、全身の運動制御を支えていることが示されました。
社会的インパクト
本研究の成果は、成長期における咀嚼に伴う感覚運動経験の重要性に、新たな視点をもたらすものです。特に以下の点で意義があります。
- 子どもの食環境を考える新たな視点:マウスを用いた研究から、成長期の噛む刺激が、口腔機能だけでなく、運動機能やバランス能力の発達にも関わる可能性が示されました。
- 影響を受けやすい時期の存在:咀嚼刺激の減少による影響が、その時期や期間によって異なる可能性が示され、成長期の食環境を考えるうえで新たな知見となります。
- 歯科と脳科学をつなぐ新たな視点:咀嚼刺激の減少と運動・バランス機能の低下との関連を、小脳の神経細胞集団の活動という観点から説明する仕組みの一端を明らかにしました。
- 機能回復の可能性の提示:低下した神経活動の同期性を高めることで運動機能が改善したことから、将来的な介入法の開発につながる可能性があります。
今後の展開
今後は、小脳の他の領域に加え、口から脳へ感覚情報を伝える三叉神経や下オリーブ核などの上流の神経回路にも解析対象を広げ、噛む刺激が脳の活動のタイミングを整える仕組みの全体像を明らかにしていきます。
なお、本研究はマウスを用いた基礎研究であり、ヒトでも同様の関係が成り立つのか、また、噛みごたえのある食事や咀嚼機能の回復が運動機能の発達にどのように寄与するのかについては、今後さらに検証する必要があります。
付記
この研究は日本学術振興会科学研究費助成事業(JP25K02375)、ロッテ財団の支援のもとで行われたものです。
用語説明
- [用語1]
- 小脳:脳の後下部に位置する領域で、運動の調節やバランスの維持を担う。近年では、認知機能や情動、ストレスの調節にも関与することが示されている。
- [用語2]
- プルキンエ細胞:小脳皮質に存在する大型の神経細胞で、小脳皮質から情報を送り出す唯一の出力細胞。運動の調節や運動学習に重要な役割を果たす。
- [用語3]
- 同期性:複数の神経細胞が同じタイミングでそろって活動する性質。プルキンエ細胞集団の同期した活動は、小脳から送り出される信号のタイミングを調節し、滑らかな運動の制御に寄与すると考えられている。
- [用語4]
- 光遺伝学:光に反応するタンパク質を特定の神経細胞に発現させ、光を照射することで、その神経細胞の活動を人為的に操作する技術。
- [用語5]
- カルシウムイメージング:神経細胞が活動する際に生じる細胞内のカルシウム濃度の変化を蛍光によって可視化し、多数の神経細胞の活動を同時に記録する方法。
論文情報
- 掲載誌:
- Brain Research Bulletin
- タイトル:
- Juvenile soft-diet feeding disrupts cerebellar timing and impairs balance in mice
- 著者:
- Mengke Liu, Nene Yamaguchi, Kyosuke Goda, Mariko Sekiguchi, Chiho Kato, Takashi Ono and Naofumi Uesaka
研究者プロフィール
リュウ・モンカ Liu Mengke
東京科学大学 医歯学総合研究科 認知神経生物学分野/咬合機能矯正学分野 大学院生
研究分野:神経生理学、矯正・小児系歯学
加藤 千帆 Chiho Kato
東京科学大学 医歯学総合研究科 咬合機能矯正学分野 助教
研究分野:矯正・小児系歯学
小野 卓史 Takashi Ono
東京科学大学 医歯学総合研究科 咬合機能矯正学分野 教授
研究分野:矯正・小児系歯学、睡眠歯科学
上阪 直史 Naofumi Uesaka
東京科学大学 医歯学総合研究科 認知神経生物学分野 教授
研究分野:神経生理学、発達神経科学