ポイント
- 補綴(ほてつ)歯科のデジタル技術を応用し、熟練演奏者の口唇と楽器の位置関係を記録・再現する、エアリード楽器用ガイドの製作方法を開発。
- 顔面スキャン、口腔内スキャン、CAD設計、3Dプリンティングを組み合わせることで、熟練演奏者の演奏時の口唇と楽器の3次元的位置関係をガイドとして再現する新しいワークフローを確立。
- 本技術は、初心者の演奏練習や指導を支援する新たなツールとなるだけでなく、口腔リハビリテーションや医療・福祉用デバイスの開発への応用にも期待。
概要
東京科学大学(Science Tokyo) 医歯学総合研究科 口腔デバイス・マテリアル学分野の羽田多麻木助教と高齢者歯科学分野の金澤学教授らの研究グループは、東京藝術大学 音楽学部邦楽科の藤原道山准教授との共同研究により、尺八などのエアリード楽器を演奏する際の口唇と楽器の位置関係を記録・再現する新しいガイドの製作方法を開発しました。
尺八やフルートなどのエアリード楽器では、口唇と楽器との距離や角度、接触位置などの3次元的位置関係が、音の出しやすさや音色に大きく影響します。また、口の形であるアンブシュア[用語1]や息を吹き込む角度も、安定した演奏には重要です。しかし、これらはこれまで主に指導者の経験や感覚に基づいて伝えられてきたため、初心者が適切な口唇と楽器の位置関係を理解し、それを繰り返し再現することは容易ではありませんでした。
本研究では、熟練した尺八演奏者の顔や歯並び、演奏時における口唇と楽器の位置関係を、顔面スキャナ[用語2]と口腔内スキャナ[用語3]で取得し、そのデジタルデータを基に3Dプリンティング[用語4]でガイドを製作しました。このガイドは、初心者が熟練者の口唇と楽器の位置関係を参考にしながら練習する際の目安となる可能性があります。将来的には、楽器教育への応用に加え、口唇や顔面の位置関係を扱う医療・リハビリテーション分野への展開も期待されます。
本研究成果は、国際科学誌「Journal of Prosthodontic Research」に、2026年7月11日付でオンライン版に掲載されました。
背景
尺八、フルート、リコーダーなどのエアリード楽器では、口唇と楽器との距離や角度、接触位置といった3次元的な位置関係が息の流れを決定し、音の出しやすさや音色に大きく関わります[参考文献1]。特に尺八では、歌口(うたぐち)に対して口唇をどの位置に置き、どの方向へ息を送るかを細かく調整する必要があります。このとき、口の形であるアンブシュアも重要ですが、初心者にとっては、アンブシュアだけでなく、楽器に対する口唇の位置や息を吹き込む角度を安定して再現することが難しいという課題があります。また、管楽器演奏では、歯の位置や口唇の状態が演奏しやすさやアンブシュアの快適性に影響することが報告されています[参考文献2]。
一方で、楽器演奏の指導では、熟練者が持つ感覚や経験を初心者に言葉だけで正確に伝えることは容易ではありません。初心者にとっては、「口唇を楽器のどの位置に合わせるか」「楽器をどの角度で当てるか」「息をどの方向へ出すか」を自ら判断することが難しく、練習効率の低下につながる要因となっていました。これまでにも、演奏時の口唇や歯への負担を軽減するミュージックスプリントが報告されていますが[参考文献3]、熟練者の口唇と楽器の3次元的な位置関係をデジタルデータとして記録し、物理的なガイドとして再現する方法については十分に検討されていませんでした。
補綴歯科では、歯や口唇、顔面の位置関係をデジタルデータとして取得し、装置の設計や製作に活用する技術が発展しています[参考文献4]。また、歯科用サージカルガイド[用語5]のように、患者ごとの口腔内形態に合わせて器具の位置や角度を誘導する技術も実用化されています。そこで本研究では、こうした補綴歯科のデジタル技術を応用し、楽器演奏時における口唇と楽器の位置関係を記録・再現する新しいガイド製作方法を開発しました。
研究成果
本研究では、熟練した尺八演奏者を対象に、顔面や歯列、尺八演奏時における口唇と楽器の位置関係を3次元のデジタルデータとして取得しました。データの取得には、顔の形状を読み取る顔面スキャナと、歯列を読み取る口腔内スキャナを用いました。
次に、これらのデータをCADソフトウェア上で統合し、口唇と尺八の位置関係を再現するガイドを設計しました。ガイドは中空構造とし、歯科用サージカルガイドに用いられる材料を使用して、3Dプリンティングにより製作しました(図1)。
完成したガイドは、熟練演奏者の口唇と楽器の位置関係を物理的に再現するものであり、初心者が反復練習を行う際の位置合わせの目安として活用できる可能性があります。また、本研究では、完成したガイドの使用感や適合性について、演奏者による予備的な自己評価も行いました(図2)。なお、本研究は製作方法を示すproof-of-concept[用語6]であり、位置精度や再現性、練習効果についての客観的な検証は今後の課題です。
社会的インパクト
本研究成果は、歯科医療で発展してきたデジタル技術を、楽器演奏の練習支援へ応用する新しい試みです。従来の楽器指導では、口唇を楽器のどの位置に合わせるか、楽器をどの角度で当てるか、息をどの方向へ送るかといった情報は、指導者の言葉や演奏者自身の感覚を通じて学ぶことが一般的でした。本研究で示した方法により、熟練者の口唇と楽器の3次元的な位置関係をデジタルデータとして記録し、ガイドとして形にできる可能性が示されました。
この技術が発展すれば、初心者は熟練者の演奏時の位置関係を目安にしながら練習できるようになり、これまで感覚的に理解するしかなかった口唇と楽器の距離や角度、接触位置を、視覚的・触覚的に確認できる可能性があります。これにより、楽器を学び始めた人の不安やつまずきを軽減し、より分かりやすい演奏指導につながることが期待されます。また、指導者にとっても、経験に基づく説明を補完する客観的な位置参照ツールとして活用できる可能性があります。
さらに、本研究の意義は楽器教育にとどまりません。口唇や顔面と外部装置との位置関係をデジタルデータとして記録し、個人に合わせた装置として製作するという考え方は、口腔リハビリテーションや発音・嚥下訓練用デバイス、口周りに装着する医療・福祉用デバイスなどへの応用も期待されます。このように、本研究は歯科のデジタル技術を医療、教育、文化芸術の分野へと展開する可能性を示す成果です。
今後の展開
今後は、複数の演奏者や初心者を対象として、ガイドの位置精度や再現性、使用感、練習効果を客観的に評価する必要があります。また、顔の形や口唇の厚み、歯並び、楽器の種類によって適したガイドの形状は異なるため、個人や楽器に応じた形状や厚み、支持部位の最適化も重要です。
さらに将来的には、指導者や熟練演奏者が初心者一人ひとりに適した口唇と楽器の位置関係を評価し、その位置関係を基に個別化ガイドを製作することも考えられます。これにより、経験に基づく指導とデジタル技術を融合した、新しい楽器教育支援法の開発が期待されます。
付記
本研究は、東京科学大学・東京藝術大学マッチングファンドの助成を受けたものです。
参考文献
- [参考文献1]
- Fletcher NH, Rossing TD. Flutes and flue organ pipes. In: The physics of musical instruments. New York: Springer; 1998, p. 503–551.
- [参考文献2]
- van der Weijden FN, Kuitert RB, Berkhout FRU, van der Weijden GA. Influence of tooth position on wind instrumentalists’ performance and embouchure comfort: a systematic review. J Orofac Orthop. 2018;79:205–218.
- [参考文献3]
- Nii M, Yoda N, Putra RH, Aida J, Sasaki K. Evaluation of the optimal hardness and thickness of music splints for wind instrument players. J Prosthet Dent. 2023;129:754–762.
- [参考文献4]
- Kanazawa M, Inokoshi M, Minakuchi S, Ohbayashi N. Trial of a CAD/CAM system for fabricating complete dentures. Dent Mater J. 2011;30:93–96.
用語説明
- [用語1]
- アンブシュア:管楽器を演奏する際の口の形や口唇の使い方。音の出しやすさや音色、音程の安定性に関わる。
- [用語2]
- 顔面スキャナ:顔の表面の形を3次元データとして読み取る装置。顔の形状や口唇の位置をデジタルデータとして記録するために用いる。
- [用語3]
- 口腔内スキャナ:歯や歯ぐきの形状を3次元データとして読み取る装置。歯科治療では、取得した3次元データを基に、かぶせ物や入れ歯、マウスピースなどの設計に用いる。
- [用語4]
- 3Dプリンティング:コンピュータ上で設計した3次元データを基に、樹脂などを積層して立体物を製作する技術。
- [用語5]
- 歯科用サージカルガイド:歯科インプラント治療などで、ドリルや器具を入れる位置や角度を正確に誘導するために使用する補助装置。患者ごとの歯並びやあごの形に合わせて製作され、治療計画どおりに処置を行うための「道しるべ」のような役割を果たす。
- [用語6]
- proof-of-concept:新しい考え方や方法が実現可能かどうかを初期段階で示すための検証。本研究では、エアリード楽器用ガイドを製作できることを示す段階を指す。
論文情報
- 掲載誌:
- Journal of Prosthodontic Research
- タイトル:
- Extension of prosthodontic digital guide workflow to reproduce lip–object spatial relationships: Application to an air-reed instrument
- 著者:
- Tamaki Hada*, Dozan Fujiwara, Maiko Iwaki, Masanao Inokoshi, Manabu Kanazawa.
研究者プロフィール
羽田 多麻木 Tamaki Hada
東京科学大学 医歯学総合研究科 口腔デバイス・マテリアル学分野 助教
研究分野:デジタルデンティストリー、デバイス、歯科材料学、補綴歯科学
金澤 学 Manabu Kanazawa
東京科学大学 医歯学総合研究科 高齢者歯科学分野 教授
研究分野:デジタルデンティストリー、補綴歯科学、高齢者歯科学
藤原 道山 Dozan Fujiwara
東京藝術大学 音楽学部 邦楽科 准教授
研究分野:尺八演奏、邦楽、演奏教育
岩城 麻衣子 Maiko Iwaki
東京科学大学 医歯学総合研究科 口腔デジタルプロセス学分野 准教授
研究分野:補綴歯科学、デジタルデンティストリー、歯科材料学
猪越 正直 Masanao Inokoshi
東京科学大学 医歯学総合研究科 口腔デバイス・マテリアル学分野 教授
研究分野:補綴歯科学、高齢者歯科学、デバイス、歯科材料学