層状半導体への“キラリティ”の電気化学的書き込みに成功

2026年6月2日 公開

キラリティを介したスピン偏極の可逆スイッチングを実証

ポイント

  • キラル分子の可逆的な挿入により非キラルな半導体のキラリティのON-OFFに成功
  • 層状構造の隙間へのキラル分子イオンの挿入を電気化学的に制御
  • キラリティを介してスピンを制御する技術として期待

概要

東京科学大学(Science Tokyo) 理学院 化学系の黄柏融(コウ・ブォロン)助教と谷口耕治教授らの研究チームは、「右手・左手」の性質に対応するキラリティ[用語1]を持つ分子を、層状半導体材料MoS2の層間へ電気化学的に出し入れすることで、半導体のキラリティを繰り返し切り替えることに成功しました。さらに、その過程で半導体中を流れる電子のスピン[用語2]の向きを制御できることを実証しました。

キラリティの制御は、近年、物質中の電子スピンを制御する新しい手法として注目を集めています。特に、キラル物質が示す「キラリティ誘起スピン選択性(CISS)[用語3]」は、磁石を使わずにスピン偏極電流[用語4]を生成できる可能性があることから、次世代スピントロニクス[用語5]への応用が期待されています。しかし従来、物質のキラリティは合成時に一度決まると、後から自由に付与・消失させることが難しく、物性制御のパラメータとして利用することはほとんどできませんでした。

本研究では、小さなサイズのキラル分子を用いることで、電気化学的に層状半導体の層間へ分子を挿入した際の結晶の歪み(ひずみ)が小さく抑えられることを見いだし、結晶構造を壊すことなく、キラル分子を繰り返し層状半導体へ出し入れできることを明らかにしました。さらに、キラル分子を挿入した際には、スピン偏極電流を発生するCISSが観測され、本来はアキラル(非キラル)な半導体内部にキラルな電子状態が形成されていることを見いだしました。

今回開発した手法では、キラル分子の挿入・脱離を電気化学的に可逆制御できるため、キラリティを介してスピン偏極電流の発生を任意に切り替えることが可能です。この性質を活かすことで、新しいキラルスピントロニクス材料の創出が期待されます。本研究成果は、磁石を用いずに電子スピンを制御する新原理の開拓につながるとともに、外部磁場や強磁性体に依存しない新しいスピントロニクス技術への展開が期待されます。

本成果は、5月17日付(現地時間)の「ACS Nano 」誌に掲載されました。

背景

「右手」と「左手」の関係に対応する「キラリティ」は、分子構造や結晶構造だけでなく、電子状態や電子スピンの性質にも深く関係する重要な概念です。自然界におけるアミノ酸やDNAなど多くの生体分子は特定のキラリティのみを持っており、この性質が生命機能の発現に本質的な役割を果たしています。一方、材料科学分野においては、キラルな物質中を電子が通過すると、特定のスピン状態を持つ電子だけが選択的に流れやすくなる「キラリティ誘起スピン選択性(CISS)」が近年注目を集めています。この現象は、磁石を使わずに電子スピンを制御できる可能性を持つことから、次世代スピントロニクス材料の新原理として期待されています。

従来、物質へキラリティを導入するには、キラルな分子や官能基を、共有結合などの強い化学結合を介して固定化する方法が一般的でした。しかしこの場合、合成後にキラリティを自由に切り替えることは難しく、可逆的なキラリティ制御はほとんど実現されていませんでした。そのため近年では、強い化学結合を伴わずに、キラル分子を物質表面へ吸着させる、あるいは層状物質の間へ挿入することで、電子状態へキラリティを誘起する手法が注目されています。

本研究で着目した層状半導体の硫化モリブデン(MoS2)は、原子レベルで薄い層が積み重なった構造を持ち、層間へさまざまなイオンや分子を挿入できることから、電池材料や電子デバイス材料として盛んに研究されています。しかし、一般的に有機分子を層状物質へ挿入すると結晶構造が大きく変化し、結晶性が損なわれることが知られています。そのため、キラル分子をMoS2内部へ可逆的に出し入れしながら、電子スピン状態を制御することを試みる研究は、これまでほとんど行われていませんでした。

研究成果

本研究では、キラル分子イオン(S-あるいはR-Mepy+)を含む電解液を用い、電気化学反応によってMoS2の層間へ分子を可逆的に挿入する手法を開発しました(図1)。本研究ではサイズの小さいキラル分子を用い、結晶の歪み(ひずみ)を極めて小さく抑えることで、分子をMoS2に繰り返し出し入れすることに成功しました。実際に、X線回折測定、ラマン分光測定、電子顕微鏡観察などから、キラル分子が結晶全体に均一に導入されていることを確認しました(図2)。さらに、キラル分子挿入時と印加する電位の符合を逆にすることで、キラル分子が脱離し、結晶構造が元の状態へ戻ることも明らかにしました(図1右)。

キラル分子を挿入したMoS2の電気特性を詳しく調べたところ、電子スピンの向きによって電流の流れやすさが変化するCISSが観測されました(図3)。加えて、キラル分子の挿入・脱離に連動して、CISSの発現と消失を可逆的に制御できることを実証しました。

これらの結果は、キラル分子を物質内部へ導入することで、半導体へキラリティを可逆的に付与できることを示しています。本研究成果は、キラリティを電気的にON/OFF制御する新しい手法を提示するものであり、磁石を用いない新しいスピントロニクスデバイスや、外部磁場に依存しない低消費電力電子材料への応用が期待されます。

図1. 層状半導体MoS2の層間へキラル分子(キラルMepy+)を可逆的に挿入および脱離(インターカレーションおよびデインターカレーション)
図2. (a)X線回折測定、(b)ラマン分光測定、(c)試料の外観写真、(d)分子イオン挿入前後におけるラマン分光マッピングによる格子振動ピーク分布(1,3:分子イオン挿入後のピーク、2,4:分子イオン挿入前のピーク)の様子。(MoS2への分子イオン挿入が一様に起こっていることを示唆)、および(e)電子顕微鏡観察の結果。分子イオン挿入後に、MoS2に含まれていなかった分子由来の炭素原子の分布を試料中に確認
図3. 原子間力顕微鏡によるCISS測定の結果

社会的インパクト

今回の研究で開発した手法では、キラル分子を層状半導体内部へ電気化学的に出し入れすることで、物質のキラリティ状態を可逆的に制御できます。これは、従来のように化学結合によってキラリティを固定化する方法とは異なり、電気信号のみで「キラル」と「非キラル(アキラル)」の状態を切り替えられる新しいアプローチです。さらに、本研究では磁石を用いずに電子スピンの流れを制御できることを示しており、将来的に低消費電力で動作する次世代スピントロニクスデバイスへの応用も期待されます。

また、今回の成果は、キラリティを単なる分子構造の特徴としてではなく、「電気的に制御可能な機能」として利用できる可能性を示しています。今後、この技術を発展させることで、スピン情報を利用した新しいメモリや論理素子、磁石を用いない情報処理デバイスの開発につながる可能性があります。さらに、キラルな光応答や触媒反応制御など、エネルギー・情報・化学分野を横断する幅広い応用展開も期待されます。

今後の展開

イオンの動きを利用して電子状態や物性を制御する「イオントロニクス[用語6]」は、次世代電子デバイスの新しい基盤技術として注目を集めています。本研究は、そのイオントロニクスに「キラリティ」と「電子スピン」という新しい自由度を組み合わせた点に大きな特徴があります。特に、キラル分子を電気化学的に可逆制御することで、半導体内部のスピン状態まで切り替えられることを示した点は、従来のスピントロニクス研究にはない新しい概念といえます。

今後は、より多様なキラル分子や層状物質へ本手法を展開することで、キラリティとスピンを自在に制御できる新しい材料系の開拓が期待されます。また、今回確認されたCISSを利用することで、磁石を用いずにスピン偏極電流を生成・制御する新しいスピンデバイスへの応用も期待されます。

さらに、本研究は、「キラル分子を物質内部へ導入することで、非キラル物質そのものにキラルな電子状態を誘起できる」ことを示しており、これまでキラリティとは無関係と考えられていた多くの半導体や層状物質において、新しい電子機能を創出できる可能性があります。将来的には、低消費電力スピントロニクス素子、キラル光応答デバイス、さらには量子材料開発など、幅広い分野への展開が期待されます。

付記

本研究は、科学研究費助成事業 学術変革領域研究(A)「キメラ準粒子(JP24H02234)」、東レ科学技術研究助成、ヒロセ財団研究助成、住友財団基礎科学研究助成、科学研究費助成事業(JP23H04619、JP23K26527、JP23H01834、JP25K17936)による助成を受けて行われました。

用語説明

[用語1]
キラル:図形や物体が、その鏡像と重ね合わすことができない性質を持つこと。右手と左手の関係があること。
[用語2]
スピン:電子などの粒子が持つ固有の角運動量。磁石としての性質の起源であり、上向き・下向きの2つの状態をとる。
[用語3]
キラリティ誘起スピン選択性(CISS):キラルな分子や物質の中を電子が通過するとき、電子のスピンの向きによって、通りやすさに差が生じる現象。
[用語4]
スピン偏極電流:特定の向きのスピンを持つ電子の流れにより生じる電流のこと。
[用語5]
スピントロニクス:電子の持つ電気的な性質(電荷)に加えて、磁気的な性質(スピン)も活用することで、より高性能で省エネルギーなデバイスを実現しようとする研究分野。
[用語6]
イオントロニクス:電子だけでなく、イオンの動きも利用して物質の性質や電子状態を制御する新しい電子技術分野。

論文情報

掲載誌:
ACS Nano
タイトル:
Reversible On–Off Switching of Chirality via Electrochemical Intercalation Control of Enantiopure Molecular Cations in a Layered van der Waals Material
著者:
Po-Jung Huang, Hiroaki Kusunoki, Daisuke Nishio-Hamane, Kouji Taniguchi

研究者プロフィール

黄 柏融(コウ・ブォロン) Po-Jung Huang

東京科学大学 理学院 化学系 助教
研究分野:固体化学、分子物性

谷口 耕治 Kouji Taniguchi

東京科学大学 理学院 化学系 教授
研究分野:固体物性化学、固体物理学

浜根 大輔 Daisuke Hamane

東京大学 物性研究所 電子顕微鏡室 技術専門職員
研究分野:鉱物科学

楠 啓明 Hiroaki Kusunoki

東京科学大学 理学院 化学系 修士課程2年(研究当時)
研究分野:固体物性化学

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東京科学大学 理学院 化学系
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