スピングラス理論の新たな展開

2025年10月24日 公開

複雑系の厳密な解析から最先端技術の新たな地平へ

ポイント

  • 温度カオスとリエントラント転移の間に深い関係を発見
  • 数値計算に頼らない厳密な論証を初めて実現
  • 機械学習や量子技術など幅広い分野への応用に期待

概要

東京科学大学(Science Tokyo)総合研究院 基礎研究機構の西森秀稔特任教授(東北大学 大学院情報科学研究科 特任教授(客員))、理学院 物理学系の大関真之教授(東北大学 大学院情報科学研究科教授)、情報理工学院 数理・計算科学系の奥山真佳特任助教(東北大学 大学院情報科学研究科助教)らの研究チームは、磁性体の一種であるスピングラス[用語1]において、これまで無関係と考えられてきた2つの現象「温度カオス[用語2]」と「リエントラント転移[用語3]」の間に、数理的に厳密なつながりがあることを世界で初めて示しました。さらに、西森ライン[用語4]と呼ばれる特別な条件下では従来は起こらないとされてきたレプリカ対称性の破れ[用語5]が起こり得ることを明らかにしました。これらは数値計算や近似的な手法ではなく、厳密な論理に基づく理論解析によって得られた成果であり、スピングラス研究の長年の常識を大きく塗り替えるものです。また、これらの発見は物理学の内部にとどまらず、機械学習や量子コンピュータの基礎技術にまで影響が及ぶ可能性を持っています。

本成果は、10月×日付(米国東部時間)の「Physical Review E」誌に掲載されました。

背景

スピングラス(図1)は不規則な相互作用を持つ磁性体であり、複雑なエネルギー構造を持つことから、統計物理学の中でも特に物性理解が難しい物質の1つです。スピングラスの研究は長い歴史を持ち、平均場近似に基づく理論の確立に関する研究に対しては、2021年にノーベル物理学賞が授与されました[参考文献1]。しかし、平均場近似の有用性が不明である実際の物質や有限次元の系での理解は不十分であり、物性理解の手法としては数値シミュレーションや近似計算に大きく依存してきました。今回の研究はそうした限界を越え、ゲージ対称性と呼ばれる特別な性質に基づく厳密な手法[参考文献2] [参考文献3]を用いてスピングラスの性質の根幹に迫りました。

図1. スピンがランダムに凍結したスピングラス

研究成果

本研究の主要な成果は、スピングラスにおいて温度カオス(図2)と呼ばれる温度変化に伴い極めて敏感に性質が変化する現象と、リエントラント転移(図3)と呼ばれる低温で秩序が失われる現象の間に、前者が後者の論理的帰結であるという深い関係があることを示した点です。これまで両者は全くつながりを持たないと考えられてきました。本研究では、従来は無視されていたノイズ間の相関を理論の枠組みに導入することにより、実際には深い論理的な関係があることが明らかになりました。さらに、西森ラインと呼ばれる特別な条件下で磁化の分布とスピングラス秩序パラメータの分布が一致することを証明し、従来存在しないとされてきたタイプの対称性の破れが現れる可能性を見出しました。温度カオスとリエントラント転移の関連の解明や、新たなタイプの対称性の破れの発見は、いずれもこれまでの常識を覆すものであり、スピングラス理論の今後の展開の方向性を決定づける重要な成果です。

図2. 温度変化で状態が急変するカオス
図3. 温度低下に伴い、状態が揃った強磁性相からばらばらのスピングラス相(SG)に移行するリエントラント転移

社会的インパクト

本研究成果は、統計物理学の発展にとどまらず、幅広い分野に大きな影響を与える可能性があります。特に、機械学習で使われる統計的推定理論にはスピングラスと共通する枠組みがあり、今回の成果が、より現実的な仮定(ノイズの間の相関)に基づいたデータ解析法や新しいアルゴリズムの開発を刺激することが期待されます。また、量子誤り訂正など次世代の量子技術にも深く関わる論理構造を持ち、今後の計算技術の革新に寄与する可能性があります。

今後の展開

今回明らかにした理論的な枠組みをさらに発展させることにより、有限次元のスピングラスにおける相転移や臨界現象の理解が大きく深まると期待されます。さらに、統計的推定や機械学習への応用研究を進めることで、ノイズ間に相関がある複雑なデータ解析に斬新な方法論が提供されると予想されます。また、量子誤り訂正などに本研究成果を応用することにより、量子コンピュータの実用化を支える基礎理論への貢献が期待されます。

付記

本研究はJSPS科研費24K16973、23H01432、内閣府SIP戦略的イノベーション創造プログラム「量子コンピュータを活用した新事業を共創する研究開発基盤」(No. 23836436)およびBRIDGE「量子プロダクト事業化推進プラットフォーム構築事業」の助成を受けたものです。

参考文献

[1]
https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2021/parisi/facts/
[2]
Hidetoshi Nishimori, Anomalous distribution of magnetization in an Ising spin glass with correlated disorder, Physical Review E 110, 064108 (2024)
[3]
Hidetoshi Nishimori, Instability of the ferromagnetic phase under random fields in an Ising spin glass with correlated disorder, Physical Review E 111, 044109 (2025)

用語説明

[用語1]
スピングラス:通常の磁石と異なり、原子の持つ微小磁石がランダムな方向に凍結した磁性体。
[用語2]
温度カオス:スピングラスを冷やすとスピンは特定の配置に落ち着くが、温度を少し変えるだけで配置全体が大きく変わる現象。
[用語3]
リエントラント転移:通常は冷やすほど秩序が増すが、さらに冷やすと再び無秩序に戻るという逆説的な現象。
[用語4]
西森ライン:スピングラスの性質を厳密に解析できるよう設定された温度と確率の間の条件を表す線。
[用語5]
レプリカ対称性の破れ:本来は同じようにふるまうはずの「系のコピー」が、それぞれ違う状態になってしまう現象。

論文情報

掲載誌:
Physical Review E
タイトル:
Temperature chaos as a logical consequence of the reentrant transition in spin glasses
著者:
Hidetoshi Nishimori, Masayuki Ohzeki, and Manaka Okuyama

研究者プロフィール

西森 秀稔 Hidetoshi Nishimori

東京科学大学 総合研究院 基礎研究機構 特任教授
東北大学 大学院情報科学研究科 特任教授(客員)
研究分野:統計物理学

大関 真之 Masayuki Ohzeki

東京科学大学 理学院 物理学系 教授
東北大学 大学院情報科学研究科 教授
熊本大学 半導体・デジタル研究教育機構 教授
株式会社シグマアイ 代表取締役
研究分野:情報統計力学、量子アニーリング

奥山 真佳 Manaka Okuyama

東京科学大学 情報理工学院 数理・計算科学系 特任助教
東北大学 大学院情報科学研究科 助教
研究分野:統計物理学

関連リンク

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東京科学大学 総合研究院 基礎研究機構

特任教授 西森 秀稔

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