ポイント
- 最大8種類の香料を調合可能なウェアラブル型嗅覚ディスプレイの開発に成功
- 香料を供給・制御する方法を最適化することで多チャネル化をして多様な香りを提示
- 疑似体験や訓練、認知症予防などのための嗅覚コンテンツへの応用に期待
概要
東京科学大学(Science Tokyo)総合研究院 未来産業技術研究所の中本高道特任教授と同大学 工学院 情報通信系のチェ・ゾウ(Zhe Zou)博士課程学生、楽天モバイル株式会社・楽天技術研究所のケルビン・チェング(Kelvin Cheng)R&Dマネージャらの研究チームは、多チャネルウェアラブル嗅覚ディスプレイ[用語1]の開発に成功しました。
嗅覚は人間の記憶、情緒、雰囲気等に密接に関わっており、香りを用いることにより疑似体験の臨場感は大きく向上します。ウェアラブル嗅覚ディスプレイはデスクトップ型に比べて、さまざまな嗅覚疑似体験や訓練を行うコンテンツに適しており、没入感の向上が期待できます。しかし、限られたスペースに多くの素子を集積化させる必要があるためにチャネル数を増やせないことが、これまでの嗅覚コンテンツ[用語2]作成の大きな障壁となっていました。
そこで本研究では、香料を供給・制御する方法を工夫し、駆動回路面積を縮小して最適化することにより、最大8種類の香料を任意の比率で実時間調合できるウェアラブル嗅覚ディスプレイを開発しました。このディスプレイについて、匂い濃度の制御性や、匂い発生の遅延時間に関して測定を行い、実際にアプリケーションに使用できる性能があることを確認しました。さらに、このウェアラブル嗅覚ディスプレイを用いた旅行体験コンテンツを制作しました。このコンテンツでは、さまざまな場所に行ってその場所の香りを体験し、旅行の気分を味わうことができます。このコンテンツ体験を利用して、開発したディスプレイの発する匂いの濃度が、安全面で問題のないレベルであることも確認しました。
今後はこのウェアラブル嗅覚ディスプレイを用いて、さまざまな嗅覚を伴う疑似体験や訓練のコンテンツを作成します。さらに認知症予防を目的とした嗅覚ゲームや、疑似体験を通じた香り商品のプロモーション等の応用を目指しており、デジタル香り技術[用語3][参考文献1]を実現していく上で必要不可欠なデバイスとなることが期待されます。
本成果は、2月23日(現地時間)付の「IEEE Sensors Journal 」誌に掲載されました。
背景
嗅覚は人間の記憶、情緒、雰囲気等に密接に関わっており、香りを用いることで疑似体験の臨場感が大きく向上します。嗅覚ディスプレイは、香りを提示するデバイスであり、視聴覚情報とともに用いることもできます。デスクトップ型の嗅覚ディスプレイが多く開発されていますが、ウェアラブル嗅覚ディスプレイを用いるとバーチャルリアリティでの香り体験が可能になります。
簡便なウェアラブル型嗅覚ディスプレイの開発はすでに行われています。しかし、使用できる香料の種類が少ないことが、嗅覚コンテンツを開発する上での大きな制約となっていました。また、香料をリアルタイムで調合できるウェアラブルデバイスもこれまでにありませんでした。デスクトップ型嗅覚ディスプレイではスペースをとれるために多チャネル搭載が容易です。しかし、実装可能なスペースに限りのあるウェアラブルデバイスでは、高密度実装による発熱などの問題から、チャネル数を増やして提示可能な香りの範囲を広げることが難しく、開発における重要な課題となっていました。
研究成果
本研究では、8種類の香料を任意の比率で実時間調合できるウェアラブル嗅覚ディスプレイを開発しました。このディスプレイでは、電気浸透流ポンプ[用語4]で液体香料をマイクロディスペンサ[用語5]に送り、ナノリットルオーダの微小な液滴を弾性表面波霧化器[用語6]上に射出します(図1)。弾性表面波霧化器はこの液滴を霧化し、ミストを鼻の前に通過させます。鼻に吸い込まれなかった匂いは活性炭のフィルタを通して無臭にして排気します。香料の調合比は各マイクロディスペンサを駆動する周波数の比率で決まります。
研究グループは、小型液体ポンプ(電気浸透流ポンプ)でマイクロディスペンサに液体香料を供給することで動作を安定化させると同時に、駆動周波数に応じた最適なポンプ印加電圧をパルス幅変調方式で制御する小面積の回路を実装しました。また、h型波形[用語7]でマイクロディスペンサを駆動する回路を実装することで、回路の高密度化による発熱の問題を低減しました。さらに、排気を弾性表面波霧化器の駆動パワーアンプのヒートシンクに通すことで、アンプの発熱量の低減を図りました。こうした動作を安定化させて発熱量を下げる回路を加えるという工夫により、チャネル数を予備研究の4チャネル[参考文献2]から8チャネルまで拡張することに成功しました。
このディスプレイに実際のアプリケーション利用に適した性能があるかどうかを評価するため、マイクロディスペンサ駆動周波数と空気中に放出された匂い(この場合はエタノール)の濃度の関係を調べたました。その結果、射出周波数に合わせてポンプ電圧を調整した結果として、両者の間にほぼ比例する関係が得られ空気中に放出される匂い濃度を射出周波数で制御可能であることが分かりました(図2)。また、コマンド送信から実際に匂いを感じるまでの時間を調べたところ3秒程度であり、ほぼインタラクティブに使用できることが分かりました。
次に、このウェアラブル嗅覚ディスプレイを利用して、さまざまな場所に旅行して、旅先で香りを嗅ぐことができる旅行体験コンテンツを制作しました。コンテンツ制作は楽天モバイル株式会社が担当しました。このコンテンツ内では、3カ所の旅行先に行くことが可能で、マッシュルーム、硫黄、オレンジ、バラ、ラベンダー、コーヒーの香りの中から場所に合わせて体験できます(図3)。
このコンテンツの体験時には、VRゴーグルの下にウェアラブル嗅覚ディスプレイを装着します(図4)。シーン間の移動、香りの発生といった操作にはマウスではなく、視線検出を用いており、対象を1秒間凝視するとシーンの移動もしくは香りの発生が生じます。また、このウェアラブル嗅覚ディスプレイでは香料の希釈にエタノールを用いているため、コンテンツ体験を通じてどの程度の濃度のエタノールを嗅いでいるかを調べて、人体に問題ない濃度レベルであることを確かめました。
この旅行体験コンテンツは国際会議やイベントで実演を行い、数多くの来場者に体験してもらいました。
社会的インパクト
今回の研究で開発したウェアラブル嗅覚ディスプレイを用いると、さまざまな香りを用いた疑似体験や訓練が可能になります。研究グループはこれまでにも、香る映画、香るアニメ、香る料理ゲーム[参考文献3]、バーチャルアイスクリームショップ、香りによるダイエット、香りによる物語表現、認知症予防嗅覚ゲーム等[参考文献4、5]を開発してきました。これまでの嗅覚コンテンツでは、表現できる香りの種類や範囲に制限がありましたが、本研究のウェアラブル嗅覚ディスプレイによって、クリエーターがもっと自由に嗅覚コンテンツを制作できるようになります。それによって、嗅覚コンテンツの普及が進み、もっと多くの人が楽しめるようになると期待されます。
今後の展開
今回開発したウェアラブル嗅覚ディスプレイを、認知症予防を目指した嗅覚ゲームや香り商品のプロモーション等へ応用することを目指します。さらに、香りの種類を拡張して、実際に多くの嗅覚コンテンツに適用し、その効果を確かめていきます。
付記
本研究は科学技術振興機構の未来社会創造事業(JPMJMI25H1)の助成を受けました。
参考文献
- [参考文献1]
- T.Nakamoto, Ed., Digital technologies in olfaction, Elsevier, 2025.
- [参考文献2]
- Nakamoto Takamichi, Tatsuya Hirasawa, and Yukiko Hanyu.
"Virtual environment with smell using wearable olfactory display and computational fluid dynamics simulation." In 2020 IEEE Conference on Virtual Reality and 3D User Interfaces (VR), pp. 713-720. IEEE, 2020. - [参考文献3]
- 中本高道 "多成分嗅覚ディスプレイとその応用" 応用物理 80, no. 3 (2011): 231-234.
- [参考文献4]
- 中本高道、Nathan Cohen、小林剛史、山本晃輔、デジタル香り技術を用いた嗅覚コンテンツ、計測自動制御学会誌「計測と制御」65, no. 4 (2026)掲載予定
- [参考文献5]
- Sunami Ryota, Takamichi Nakamoto, Nathan Cohen, Takefumi Kobayashi, and Kohsuke Yamamoto. "Exploring the effects of olfactory VR on visuospatial memory and cognitive processing in older adults." Scientific Reports 15, no. 1 (2025): 10805.
用語説明
- [用語1]
- 嗅覚ディスプレイ:香りを提示するデバイス。コンピュータからコマンドを送って簡単に制御できる特長がある。
- [用語2]
- 嗅覚コンテンツ:香りを伴う動画やゲーム等のコンテンツ。エンターティメント、災害シミュレータ、アートコンテンツ、高齢者認知機能の改善等の用途がある。
- [用語3]
- デジタル香り技術:香りをデジタル情報化して、香りを再現、創作する技術の総称。嗅覚情報を自在に操れるようになることを目指して、研究開発が進められている。
- [用語4]
- 電気浸透流ポンプ:小型の送液ポンプ。低速で負荷変動に強い。
- [用語5]
- マイクロディスペンサ:微小な液滴を射出するデバイス。
- [用語6]
- 弾性表面波霧化器:液体を霧化することができる超音波デバイス。
- [用語7]
- h型波形:HとLだけでなく中間値も含めて3値を利用した波形。
論文情報
- 掲載誌:
- IEEE Sensors Journal
- タイトル:
- Development of an Eight-channel Wearable Olfactory Display for Virtual Reality
- 著者:
- Zhe Zou, Takamichi Nakamoto, Hsueh Han Wu, Kelvin Cheng, Sungho Lee, and Shoichi Hasegawa
研究者プロフィール
中本 高道 Takamichi Nakamoto
東京科学大学 総合研究院 未来産業研究所 特任教授
研究分野:知覚情報処理、ヒューマンコンピュータインタラクション、センサシステム、センサデバイス
長谷川 晶一 Shoichi Hasegawa
東京科学大学 総合研究院 未来産業技術研究所 准教授
研究分野:バーチャルリアリティ
チェ・ゾウ Zhe Zou
東京科学大学 工学院 情報通信系 情報通信コース
研究分野:バーチャルリアリティ
シュエハン・ウー Hsueh Han Wu
楽天モバイル株式会社
研究分野:バーチャルリアリティ・ヒューマンコンピュータインタラクション
ケルビン・チェング Kelvin Cheng
楽天モバイル株式会社・楽天技術研究所
研究分野:ヒューマンコンピュータインタラクション
ソンホ・イ Sungho Lee
楽天モバイル株式会社
研究分野:ヒューマンコンピュータインタラクション