ポイント
- メタバース空間(Spatial)でのVR解剖学講義を開発し、平面モニターを用いた講義(2D講義)との学習効果を比較した。
- VR講義群は総合得点で有意に高く、特に空間推論問題で大きな効果量(g=1.44)を示し、空間理解の向上が確認された。
- VRは学習意欲や空間理解を高めた一方、酔いや機器負担などの課題もあり、対面・2D講義を補完する活用が現実的と示唆された。
概要
東京科学大学(Science Tokyo)医歯学総合研究科 耳鼻咽喉科学分野の伊藤卓講師と堤剛教授らの研究チームは、同大学 ヘルスケア教育機構 臨床シミュレーション教育室の金子英司准教授らと共同で、メタバース[用語1]環境を用いたインタラクティブなバーチャルリアリティ(VR)[用語2]解剖学講義を開発し、Zoomを用いた平面モニター上での講義との学習効果を比較しました。
医療の学習では、体の中を「立体として思い浮かべる力」が非常に重要です。神経の通り道や臓器同士の距離感が分かることは、診察や手術の安全性にも関わります。しかし、教科書やスライドは平面が中心であり、図やCT画像から立体をイメージすることが苦手な学生も少なくありません。そこで、教員と学生が同じ3D空間に入り、臓器モデルを動かしながら学べるVR講義を開発しました。
その結果、VR講義は単なる「暗記」に比べて、特に空間的な理解(立体を頭の中で回転させたり、位置関係を把握したりする力)を伸ばしやすいことが示されました。これは、耳・鼻・のど、脳、心臓、外科など、立体構造の理解が重要な分野の学習を支援する可能性があります。さらに、VRは同じ教材を多くの学生に届けやすく、遠隔地においても体験型の学習を提供できる点が特長です。将来的には、学習機会の地域差を小さくし、学びの選択肢を増やすことにもつながります。
一方で、ヘッドセットの重さやVR酔いといった課題も明らかになりました。従って、VRは「万能な置き換え」ではなく、対面実習や2D講義を補完する手段として、目的に応じて使い分けることが重要であると判明しました。次のステップとして、
- 講義直後だけでなく時間が経過しても知識が保持されるか(遅延テスト)
- 学習内容が臨床判断や実習成績に結びつくか
- VR内の情報量や説明順を工夫することで「分かりやすさ」と「疲れにくさ」を両立できるか
を検証します。あわせて、より軽量な機器の活用や、VRが苦手な人でも参加しやすい設計(PC参加の併用、短時間モードの導入など)を取り入れ、誰にとっても学びやすいVR教材へと改良していきます。将来的には、多施設での検証を行い、医学教育の現場で継続的に活用できる形(授業設計や運用方法)を整備していきます。
本成果は、7月6日付(現地時間)の「Anatomical Sciences Education 」誌に掲載されました。
A-Cは、Zoom上で平面モニター視聴により行った講義の一場面であり、3次元解剖モデルを画面共有して提示した例である。D-Iは、同じ教材をSpatial[用語3]プラットフォーム上のメタバース空間に提示し、教員と学生がアバターとして同一空間に入り、モデルに近づいて観察したり、指し示しながら議論したりするVR講義の一場面を示す。これにより、同一教材であっても、2D講義では得にくい「奥行き」や「位置関係」を、学習者間で共有しながら体験的に学べる学習環境を構築したことを示している。
本図は、講義後アンケートの自由記述コメントに含まれる語を集計し、出現頻度が高い語ほど大きく表示したワードクラウドである。学習者の記述では「Understanding(理解)」「3D structure(3次元構造)」「Anatomical structures(解剖学的構造)」「Engagement/fun(参加しやすさ・楽しさ)」「Immersion(没入感)」「Clarity(分かりやすさ)」などが目立ち、VR講義が立体構造の理解や学習への関与を促した可能性が示唆される。一方で、「Time allocation(時間配分)」「Review/refresh(復習)」「Practice questions(練習問題)」「Adoption/implementation(導入・運用)」などの語も見られ、教材設計や運用面(情報量、進行、復習設計等)の改善が今後の課題であることも示している。
背景
解剖学は医学教育の基盤ですが、臓器・血管・神経の「前後・上下・深さ」といった3次元の位置関係を正しく理解することは、2次元(平面)のスライドや動画を中心とした講義では難しい場合があります。医療現場では、重要な神経や血管を避けながら安全に処置や手術を行うために、立体構造を頭の中で正確に思い描く力が欠かせません。つまり、学生の段階で「立体を理解する力」を確実に育てることは、将来の医療安全にもつながる社会的課題といえます。
一方、近年は学生数の増加や、教員・解剖体確保の負担、実習時間の制約、感染症流行時の対面制限などにより、十分なハンズオン教育を全員に均等に提供することが難しくなる場面があります。遠隔講義(Zoom等)は学習機会を維持する有効な手段ですが、平面画面では3次元の感覚をつかみにくいという弱点があります。
本研究は、本学医学部の「プロジェクトセメスター」(授業の一環として設定された約6カ月間の研究コース)での取り組みを起点として発展させました。プロジェクトセメスターでは、主要な講義・試験および基礎実習を終えた学生が、関心のある分野の研究に集中的に取り組み、科学的な問いを立て、それを検証・考察する力を身に付けることで、科学的視点を有する医師としての基盤を養成します。
そこで本研究では、VRやメタバース技術を用い、3次元モデルを「見る」だけでなく、動かし、近づき、内側からも観察できるといった「体験しながら学ぶ」環境を構築しました。そして、従来のオンライン講義と比較して、どの学習項目に効果があるのかを検証することを目的としました。
研究成果
本研究では、SpatialプラットフォームおよびMeta Quest 2[用語4]を用いて、教員と学生がアバターとして同一空間に入り、臓器モデルやCT/MRI由来の3次元データを共同で操作できるVR解剖学講義を開発しました。比較対象として、同一内容をZoom上で平面モニターにより視聴する従来型オンライン講義を実施し、講義直後のテスト成績およびアンケートによって学習効果を評価しました。
その結果、講義直後のテストでは、VR講義群の平均得点は従来講義群よりも有意に高く(66.0%±18.3 vs 43.6%±18.0、p<0.001)、特に空間推論問題(9問)において大きな効果量が示されました(Hedges’ g=1.44)。一方、事実・トポグラフィ問題(3問)では群間差は小さく(p=0.286)、VRの効果は主として「空間的理解」に特異的であることが示唆されました。
また、VR受講後のアンケートでは、学習意欲や空間理解の向上について高い評価が得られた一方で、ヘッドセットの重量感や情報量の多さ、酔い(cybersickness)など、改善すべき課題も明らかになりました。
社会的インパクト
本成果は、メタバース型VR講義が、従来の2D講義では伸ばしにくい「空間理解」を効率よく補強し得ることを示しました。空間理解は、耳鼻咽喉科領域(側頭骨・副鼻腔・頸部)をはじめ、脳神経外科や心臓血管外科など、多くの臨床分野において安全な医療に直結する基礎能力です。本手法が普及すれば、学生や若手医師が複雑な立体構造をより確実に理解できるようになり、将来的な医療安全の向上に寄与することが期待されます。
さらに、メタバース空間では、離れた場所にいる学習者同士が同一の3D教材を共有し、指し示しながら議論できるため、教育機会の地域差や施設間格差を小さくし、学習の選択肢を広げる可能性があります。これは、Science Tokyoが掲げる「科学の進歩」と「人々の幸せ」を探求し、社会とともに新たな価値を創造するというミッションにも合致する取り組みです。
今後の展開
今後は、
- 講義直後だけでなく時間が経過しても知識が定着するか(遅延テスト)
- 学習内容が臨床判断や実習技能に結びつくか(学習の転移)
- 教材設計を工夫することで情報量を適正化し、学習効果と快適性(酔い・疲労)を両立できるか(認知負荷の最適化)
を検証します。
加えて、軽量デバイスの導入や短時間モードの設定、PC参加の併用など、学習者の多様性に対応した運用指針を整備し、複数施設における大規模検証を進めます。最終的には、医学部の正規カリキュラムや臨床研修の教育プログラムに組み込める形で、メタバースVR講義の社会実装を目指します。
参考文献
- [参考文献1]
- Ito T, Fujikawa T, Takeda T, Mizoguchi Y, Okubo K, Onogi S, Nakajima Y, Tsutsumi T. Integration of Augmented Reality in Temporal Bone and Skull Base Surgeries. Sensors (Basel, Switzerland). 2024;24(21):7063.
- [参考文献2]
- Yamazaki A, Ito T, Sugimoto M, Yoshida S, Honda K, Kawashima Y, Fujikawa T, Fujii Y, Tsutsumi T. Patient-specific virtual and mixed reality for immersive, experiential anatomy education and for surgical planning in temporal bone surgery. Auris Nasus Larynx. 2021 Dec;48(6):1081-91.
- [参考文献3]
- 伊藤卓 : 医療DXの可能性が広がる!XR(VR・AR・MR)とメタバースの最前線(第14回) 耳鼻咽喉科・頭頸部外科領域におけるXR,メタバースの活用について. INNERVISION(0913-8919)39巻2号 Page78-83(202401. 2024 2024;解説:78-83. )
用語説明
- [用語1]
- メタバース:インターネット上の3次元仮想空間で、利用者がアバターとして参加し相互に交流できる環境。
- [用語2]
- バーチャルリアリティ(VR):ヘッドマウントディスプレイ等を用いて没入型の仮想空間を体験する技術。
- [用語3]
- Spatial:VR/PC等から参加できるメタバースプラットフォーム。本研究では講義空間の構築に使用。
- [用語4]
- Meta Quest 2:Meta社のVRヘッドマウントディスプレイ。
論文情報
- 掲載誌:
- Anatomical Sciences Education
- タイトル:
- Metaverse-based virtual reality and spatial learning in cervicofacial anatomy: A curriculum-embedded comparative study in undergraduate medical students
- 著者:
- Taku Ito, Hidekazu Kawasaki, Ayame Yamazaki, Yoshimaru Mizoguchi, Kumiko Yamaguchi, Eiji Kaneko, Takeshi Tsutsumi
- DOI:
- 10.1002/ase.70277
研究者プロフィール
伊藤 卓 Taku Ito
東京科学大学 医歯学総合研究科
耳鼻咽喉科学分野 講師
研究分野:分子遺伝学、耳科学、側頭骨手術、XR技術の医療活用
川崎 秀和 Hidekazu Kawasaki
東京科学大学 医学部医学科 学部学生
研究分野:耳鼻咽喉科学、メタバース、VR
金子 英司 Eiji Kaneko
東京科学大学 ヘルスケア教育機構
臨床シミュレーション教育室 准教授
研究分野:循環器内科、老年医学、医学教育
堤 剛 Takeshi Tsutsumi
東京科学大学 医歯学総合研究科
耳鼻咽喉科学分野 教授
研究分野:めまい・平衡医学、姿勢制御、側頭骨腫瘍、外耳道がん