ポイント
- 喫緊の課題である量子コンピュータの計算過程で発生する情報の変化や損失といった「量子誤り」を効率的に訂正する新たな手法を発見
- 「アフィン置換」と「有限体上の同時ビリーフプロパゲーション復号アルゴリズム」を組み合わせた手法により、エラーなしに伝送できる限界に迫る誤り訂正性能と計算効率を実証
- 高性能量子コンピュータ実現に向けた基盤技術として、従来のコンピュータでは困難であった問題の解決に資すると期待
概要
東京科学大学(Science Tokyo)工学院 情報通信系の河本大輝(修士学生 研究当時)と笠井健太准教授らの研究チームは、大規模量子計算の実現に不可欠な「量子誤り訂正技術」において、理論上の性能限界に極めて近い効果を持ちながら、高速に訂正する手法を発見しました。
具体的には、アフィン置換[用語1]という数学的手法を用いた新しい構成法と、量子コンピュータ特有の2種類のエラー(ビット反転誤りと位相反転誤り)を同時に復号するビリーフプロパゲーション復号アルゴリズム[用語2]を従来の2元体ではなく大きなサイズの有限体[用語3]上で動作させる方法を組み合わせた手法です。その結果、数十万個の量子ビットを要する大規模な計算においても、エラー率を0.01%以下という極めて高い精度で修正できることをシミュレーションにより実証しました。
従来の古典通信理論では「LDPC符号」が通信路容量に迫る性能を持つと知られていましたが、量子LDPC符号[用語4]で同様の性能を効率的に実現することは長年の課題でした。研究チームの成果は、短いサイクルを含まない符号構造と多元体の利用により、復号性能と計算効率を両立し、実用的で拡張可能な量子誤り訂正を可能とすることができます。
この成果により、従来のコンピュータでは困難であったシュミレーションや機械学習などの複雑な問題を量子コンピュータ[用語5]で解く際の大規模化と信頼性向上に大きく貢献することが期待されます。
本成果は、9月30日付(英国時間)の「npj Quantum Information」誌に掲載されました。
背景
近年、量子計算技術は急速に進展し、数千個の物理量子ビットから成るシステムで数十個の論理量子ビットを実現できるようになっています。しかし、実用的な量子アプリケーションの多くは数百万個以上の信頼できる論理量子ビットを必要とするため、大規模かつ効率的な量子誤り訂正技術の確立が急務となっています。その大規模化を妨げる最大の要因は、装置の安定性や制御技術に関わる工学的課題です。具体的には、量子ビットのコヒーレンス時間の短さ、ゲート操作や測定における誤り率の高さ、量子ビット間の相互作用範囲の制約、大規模集積化技術や冷却技術に伴う困難などが挙げられます。これらはいずれも大規模な論理量子ビットを構築するうえで本質的な制約となっています。
しかし、装置の制約を取り除いた理想的な符号理論の枠組みに限定したとしても、量子誤り訂正符号の設計には未解決の課題が残されていました。代表的なものとして、低い符号化率、鋭い閾値現象の不足による性能改善の限界、エラーフロアによる高信頼領域での性能劣化、ハッシング限界[用語6]までの大きな隔たり、さらにビリーフプロパゲーション復号後に必要となる高コストな後処理などが挙げられます。量子コンピュータが実用的な問題を解くためには大規模化が不可欠ですが、量子誤り訂正は規模を大きくするほど理論的には性能が向上することが知られています。それにもかかわらず、これまで大規模化のメリットを真に活かせる量子LDPC符号は見つかっていませんでした。
一方、古典情報理論の分野では、LDPC符号が登場して以来、通信路容量に迫る効率的な誤り訂正が実現されてきました。実際にLDPC符号は第5世代(5G)移動通信システムに採用され、大規模符号化が社会インフラの基盤を支えるに至っています。本研究では、量子LDPC符号を古典LDPC符号の成熟度の水準に引き上げることを目指しました。
研究成果
本研究では、これまで困難とされてきた大規模な量子誤り訂正を現実的に可能にする新しい量子LDPC符号を提案し、その性能を大規模シミュレーションで実証しました。今回の成果は、古典的な誤り訂正技術に匹敵する性能を量子の世界で示した点で画期的です。
アフィン置換を用いた新しい構成法により、復号性能を低下させる要因である短い閉路を符号構造から排除し、エラーフロアをフレーム誤り率が10-4に至るまで抑制することに成功しました(図1)。さらに、ビット反転誤りと位相反転誤りを同時に扱う復号アルゴリズムを導入し(図2)、従来法では到達できなかったハッシング限界に迫る高い性能を実現しました(図3)。



本研究の大きな特徴は、大規模化するほど復号性能が向上するスケーラビリティを備えていること、復号計算量が物理量子ビットの数に比例するだけの効率性を持つこと、そして数十万ビット規模の大きな符号においても極めて高い信頼性を確保できることです。その結果、量子LDPC符号において、従来は不可能とされてきたハッシング限界近傍での高効率誤り訂正を実現しました。本研究は、量子の分野がその水準に近づきつつあることを示すものであり、フォールトトレラント量子コンピュータの実現に向けた大きな一歩となります。
社会的インパクト
この研究は、将来の量子コンピュータに欠かせない「信頼できる誤り訂正技術」の実現に大きく貢献するものです。大規模な量子計算を可能にすることで、シミュレーション、新素材開発、最適化問題の解決、さらには暗号解析など、社会的に重要な応用が現実味を帯びてきます。今回、ハッシング限界に近い高い性能を示したことにより、量子誤り訂正の実用化が一段と現実的になり、フォールトトレラント量子コンピュータの実現に向けた道筋が具体的に見えてきました。
今後の展開
今後は、さらなるエラーの低減に向けて、縮退誤りの扱いや後処理技術の高度化を進める予定です。また、これまで古典符号理論で発見されたアイデアを使ってより厳しいノイズも訂正できる比較的低い符号化率のスケーラブルな符号の設計を目指します。長期的には、量子誤り訂正の理論とハードウェア設計を橋渡しすることで、大規模量子計算の実現に向けた道筋を提示します。
用語説明
- [用語1]
- アフィン置換:アフィン置換は、整数を「掛け算と足し算」の組み合わせで入れ替える方法。この方法で作られる並べ替えは、単なる順番の入れ替えではなく、規則性を持ちながら全体をランダムにシャッフルする特徴がある。
- [用語2]
- ビリーフプロパゲーション復号アルゴリズム:多くの変数を有する関数を効率的に周辺化するアルゴリズムであるサムプロダクトアルゴリズムを確率分布に適用したもの。系の自由エネルギーをBethe近似により最小化するアルゴリズムとして理解できます。
- [用語3]
- 有限体:有限体とは、有限個の元を持つ体。体とは、加法と乗法に関して閉じており、加法群・乗法群(0を除く)・分配法則を満たす代数系です。有限体は必ず素数のべき乗の元を持つ。
- [用語4]
- 量子Low-Density Parity-Check(LDPC)符号:広義には、各スタビライザ生成子の重みが少数であるスタビライザ符号全般を指し、surface code や color code も含まれる。狭義には、CSS構成に基づき疎なパリティ検査行列を持つ量子符号を指し、本研究ではこちらの意味で使っている。
- [用語5]
- 量子コンピュータ:ヒルベルト空間上の状態ベクトルに基づく量子ビットを情報担体とし、ユニタリ演算と測定により計算を行う計算モデル。その計算能力は、量子重ね合わせとエンタングルメントによる並列性、および干渉効果に依拠しており、古典計算では指数時間を要する特定の問題に対して多項式時間アルゴリズムを可能にする。
- [用語6]
- ハッシング限界:シングルレター化されたコヒーレント情報。量子通信路を通じてエラーなしに伝送できる量子情報の理論上の最大量(量子容量)の下限値であり、量子誤り訂正性能のベンチマークとされる。
論文情報
- 掲載誌:
- npj Quantum Information
- タイトル:
- Quantum error correction near the coding theoretical bound
- 著者:
- Daiki Komoto and Kenta Kasai
研究者プロフィール
河本 大輝 Daiki Komoto
東京科学大学 工学院 情報通信系 修士課程学生(研究当時)
研究分野:量子LDPC符号

笠井 健太 Kenta Kasai
東京科学大学 工学院 情報通信系 准教授
研究分野:量子誤り訂正、符号理論、情報理論
