ポイント
- 脳の血管にできる脳動脈瘤の中を流れる血液の動きを、実用的な計算手法によって正確に推定することに成功
- MRI画像と数値シミュレーションを融合した最適化手法(データ同化)を活用
- 患者ごとの血流状態を定量的に把握できるため、将来的には脳動脈瘤の成長や破裂リスクの予測に貢献する可能性
概要
東京科学大学(Science Tokyo) 工学院 機械系の伊井仁志教授らの研究チームは、脳動脈瘤[用語1]内部の血液の流れ(血流)を患者ごとに評価するための、実用的な計算手法を開発しました。この手法では、患者ごとに取得された4D flow MRI[用語2]画像と数値流体力学解析[用語3]を融合するデータ同化[用語4]を用いています。従来のデータ同化を用いた方法と比較して、高効率かつ高忠実に血流を再現することが可能です。
脳動脈瘤は、血管の壁がコブ状に膨らむ病気であり、その破裂はクモ膜下出血の主な原因とされています。そのため、患者ごとの血流を正確に評価する技術が求められています。これまで、4D flow MRIや数値流体力学解析による評価法が用いられてきましたが、定量性に課題がありました。また、両者を融合したデータ同化手法も提案されていましたが、実用面での課題が残っていました。
本研究の成果により、患者ごとの血流を定量的に評価することが可能となり、将来的には脳動脈瘤の成長や破裂の予測に役立つことが期待されます。
本研究は、市村翼氏(研究当時:東京都立大学 大学院システムデザイン研究科 機械システム工学域 博士前期課程、東京科学大学 工学院 機械系 特別研究学生)、山田茂樹博士(名古屋市立大学 大学院医学研究科 脳神経外科学分野 准教授)、渡邉嘉之博士(滋賀医科大学 放射線医学講座 教授)、河野浩人博士(滋賀医科大学 脳神経外科学講座 助教)との共同成果です。本成果は、5月28日付の「Computer Methods and Programs in Biomedicine」誌に掲載されました。
背景
脳動脈瘤は、脳の血管がコブ状に膨らむ病気であり、その破裂はクモ膜下出血の主要な原因とされています。死亡率は最大で35%に達しますが、破裂する割合は年間で約2%とされており、臨床の現場では、治療に伴うリスクと破裂のリスクを慎重に評価することが求められています。
動脈瘤の成長や破裂には、血管の形状、壁の病理的変化、そして血液の流れ(血流)といった複数の因子が複雑に関与しています。もし、患者ごとの脳動脈瘤内部の血流を詳細に評価し、その情報から動脈瘤の成長や破裂を予測できれば、危険な症例に対してのみ治療を行うといった、より精度の高い医療戦略を立てることが可能となります。そのためには、患者ごとの血流を正確に評価する技術が不可欠です。
これまで、医用MRIによる計測や数値流体力学解析が用いられてきましたが、MRIの計測データは解像度が低くノイズも大きいこと、また数値シミュレーションでは解析条件の適切な設定が難しいことから、いずれも定量性に課題がありました。
この課題を解決する手法として、計測データと数値解析を融合させる「データ同化」と呼ばれる数理技術が研究されています。しかし、データ同化では原理的に数値流体力学解析を何度も実行する必要があり、計算時間が非常に長くなるという実用面での課題が残されていました。
研究成果
本研究では、患者ごとに取得された4D flow MRI画像と数値流体力学解析を融合させる「データ同化」によって、脳動脈瘤内部の血流場の定量的に評価する、これまでにない実用的な戦略を提案しました。本手法の特徴は、以下の2点に集約されます。
(a)脳動脈瘤内部のみを解析対象とする点
(b)フーリエ級数展開により、変数の時間変化を少ない自由度で評価する点
まず、(a)について、本研究では、解析対象を脳動脈瘤の内部のみに限定し、主流血管との接続部(出入口境界)における境界条件として、速度の時空間分布を逆推定しています(図1)。

脳動脈瘤内部では、主流血管に比べて血流速度が遅いため、4D flow MRI撮像時に設定されるVENC[用語5]の値を小さくすることが可能です。これにより、速度計測のS/N比[用語6]が向上し、計測データの品質が高まり、データ同化の信頼性も向上します。さらに、解析領域を脳動脈瘤内部に限定することで、従来の主流血管も含めた解析に比べて、数値流体力学解析の計算時間を大幅に削減できます。
次に(b)について、先に述べた通り、提案手法では、脳動脈瘤の入口における速度の時空間分布を境界条件として推定しますが、この値は、数値流体力学解析の時間解像度に基づいて定義される必要があります。従来手法では、この時系列変数を陽に保持する形式で定式化するため、時間方向の自由度が膨大になり、逆問題の解が得にくくなるうえ、メモリ使用量の増大により、計算そのものが困難になるおそれがありました。
本手法では、血流の拍動性に着目し、変数の時間変化に対してフーリエ級数展開を適用することで、時間方向の自由度を最大で約10にまで削減し、これらの問題を解消できることを示しました。
疑似データを用いた数値実験では、提案手法が真の流れ場を4~7%の誤差で推定できることを確認しました(図2)。

また、実際の患者データに基づく解析においても、従来の数値流離力学解析と比較して、提案手法は計測データにより近い流れ場を再現することができました(図3)。

さらに、この解析により、詳細な流れ場や圧力、壁面せん断応力[用語7]などに関連した種々の指標について、妥当な評価が可能であることを示しました(図4)。

社会的インパクト
本研究の成果により、患者ごとの血流を定量的に評価することが可能となり、将来的には脳動脈瘤の成長や破裂の予測に役立つことが期待されます。
脳動脈瘤の破裂リスクを正確に評価することで、早期診断による治療の必要性や予防策を講じることが可能となり、さらに、個別化された治療方針を適切に立てることで、治療に伴うリスクを最小限に抑えつつ、その効果を最大限に引き出すことができます。
これらの成果は、健康・医療分野における「Society 5.0」の実現に向けた新たな技術として、大きく貢献することが期待されます。
今後の展開
現時点では検証データが限られているため、今後はより多くの患者データを収集し、提案手法の有用性について検証を進めていく必要があります。
また、臨床現場での実用化を目指すには、さらなる計算時間の短縮が求められます。
本研究では、スーパーコンピュータ「富岳」[用語8]をはじめ、日本が優位性を持つ高性能計算資源を活用し、これらの課題の克服に取り組んでいきます。
付記
本研究は、文部科学省「富岳」成果創出加速プログラム「「富岳」で実現するヒト脳循環デジタルツイン」(JPMXP1020230118)の一環として実施、また、日本学術振興会科学研究費助成事業(JP22H00190、JP24K02557)の支援を受け実施されました。また、本研究の一部は、スーパーコンピュータ「富岳」 (課題番号:hp230208、hp240220、 hp250236)、名古屋大学情報基盤センタースーパーコンピュータ「不老」の計算資源の提供を受け、実施されました。
用語説明
- [用語1]
- 脳動脈瘤:脳の動脈血管壁が脆弱化しコブ状に膨らんだもの。
- [用語2]
- 4D flow MRI:位相コントラスト法と呼ばれるMRIの撮像原理の一つを用いて、非侵襲的に体内の血液や脳脊髄液の流速の四次元分布(空間三次元と時間)を計測する方法。
- [用語3]
- 数値流体力学解析:流体の運動を記述する方程式を数値シミュレーションにより解くこと。本研究では、非圧縮性Navier-Stokes方程式が適用される。
- [用語4]
- データ同化:異なる二つのデータを組み合わせて、より信頼性の高いデータを得ること。主に、観測データとシミュレーションモデルを融合し、より現実に近い結果を得たり、システムの状態を正確に推定したりすること。本研究では、観測データに4D flow MRIで得られた血流速度、シミュレーションモデルが数値流体力学解析における数理・数値計算モデルに対応する。
- [用語5]
- VENC:Velocity Encodingの略語であり、位相コントラストを利用したMRI計測において、速度と位相差を関係付けるために設定する値。値が大きいほど、計測できる速度の上限が上がるが、一般的に低い速度領域のS/N比は小さくなる。
- [用語6]
- S/N比:信号(signal)と雑音(noise)の比。値が大きいほど品質の良い信号が得られていることを意味する。
- [用語7]
- 壁面せん断応力:粘性流体の流れにより壁面上に作用するせん断応力。
- [用語8]
- スーパーコンピュータ「富岳」:スーパーコンピュータ「京」の後継機として理化学研究所が設置し、2021年3月から共用を開始した計算機。2020年6月以降、世界のスーパーコンピュータに関するランキングにおいて、4部門で4期連続1位、うち2部門で10期連続1位を獲得するなど、世界トップレベルの性能を持つ。
論文情報
- 掲載誌:
- Computer Methods and Programs in Biomedicine
- タイトル:
- A practical strategy for data assimilation of cerebral intra-aneurysmal flows using a variational method with boundary control of velocity
- 著者:
- Tsubasa Ichimura, Shigeki Yamada, Yoshiyuki Watanabe, Hiroto Kawano, Satoshi Ii
研究者プロフィール
市村 翼 Tsubasa ICHIMURA
東京都立大学 大学院システムデザイン研究科 機械システム工学域 博士前期課程/東京科学大学 工学院 機械系 特別研究学生(研究当時)
研究分野:バイオメカニクス、機械工学
山田 茂樹 Shigeki YAMADA
名古屋市立大学 大学院医学研究科 脳神経外科学分野 准教授
研究分野:脳脊髄液、ハキム病(特発性正常圧水頭症)、4D flow MRI
渡邉 嘉之 Yoshiyuki WATANABE
滋賀医科大学 放射線医学講座 教授
研究分野:MRI、脳脊髄液、脳血流
河野 浩人 Hiroto KAWANO
滋賀医科大学 脳神経外科学講座 助教
研究分野:脳血流、脳動脈瘤、4D flow MRI
伊井 仁志 Satoshi II
東京科学大学 工学院 機械系 教授
研究分野:バイオメカニクス、流体力学、計算力学
