ポイント
- 新規フェロモン受容体候補分子ancV1Rがフェロモン感受性に影響することを発見。
- ancV1R遺伝子を欠損した雌マウスは、雄マウスを認識できずに拒絶することを確認。
- 古代魚から哺乳類までの種に共通するフェロモン受容メカニズムの全容解明に期待。
概要
東京科学大学(Science Tokyo)※ 生命理工学院 生命理工学系の近藤宏大学院生(研究当時)、二階堂雅人准教授、廣田順二教授らの研究チームは、東京大学大学院の東原和成教授、アーヘン工科大学のMarc Spehr教授らと共同で、新規フェロモン受容体候補分子ancV1Rが様々なフェロモン[用語1]物質の感知に重要な役割を果たしていることを明らかにしました。
多くの動物は、種ごとに異なるフェロモンを用いて個体間コミュニケーションを行っており、一般に動物種間でのフェロモン受容体の類似性は低いとされています。2018年、二階堂らによるシーラカンスゲノムの解析によって、多くの動物種に共通する例外的な新規フェロモン受容体候補分子「ancV1R」が発見されました。ancV1R遺伝子は、約4億年以上も前から脊椎動物で保存されてきたことから、フェロモン感覚における重要性が示唆されてきましたが、これまでその機能は明らかになっていませんでした。
研究グループは今回、ゲノム編集によってancV1R遺伝子を欠損させたマウスを作出し、ancV1Rの機能解明に取り組みました。その結果、ancV1R欠損マウスでは、様々なフェロモン物質に対する神経細胞の感受性が低下することを見出しました。また、フェロモン感受性の低下によって、雌マウスでは雄マウスを雄として認識できなくなり、強い拒絶行動を示すようになるなど、フェロモンを介した行動に異常をきたすことがわかりました。広範な動物が共有するancV1Rの機能を明らかにした本研究の結果は、フェロモンによって支えられる、性行動や縄張り行動、母性行動といった動物の社会行動の理解につながる成果と言えます。
本成果は、11月21日付(米国東部時間午前11時)の「Current Biology」誌に掲載されました。
- 2024年10月1日に東京医科歯科大学と東京工業大学が統合し、東京科学大学(Science Tokyo)となりました。
背景
多くの動物は、尿や糞、涙液などに含まれるフェロモン物質を利用して、他個体を認識し、性行動・縄張り行動・母性行動など、適切な社会行動をとります。フェロモンは鋤鼻器(じょびき)[用語2]と呼ばれる受容器にあるフェロモン受容体で感知されます。マウスではフェロモン受容体はおよそ300種類存在し、それぞれが特定のフェロモン物質を受容し、それに応じた適切な行動を引き起こすと考えられています。
動物は種ごとに異なる物質をフェロモンとして利用しており、動物種間でのフェロモン受容体の類似性は低く、多様性に富んでいることが知られています。2018年に、本研究チームの二階堂らのシーラカンスゲノムの解析によって、古代魚から哺乳類の間で高度に保存されている例外的なフェロモン受容体候補遺伝子が発見されました。その起源は4億年以上前まで遡れることから「古代のフェロモン受容体」を意味する「ancient Vomeronasal Receptor 1(ancV1R)」と命名されました。ancV1R遺伝子は、鋤鼻器を持つ全ての動物種で保存されている一方で、鋤鼻器が退化した霊長類、鳥類、水生哺乳類では偽遺伝子化[用語3]していることから、フェロモン受容器を有する多くの動物のフェロモン感覚において中心的な役割を担っていることが予想されていました(図1)。
通常、フェロモン受容体は1つの神経細胞で1種類のみが発現しており、特定のフェロモン物質を識別し、神経細胞を活性化させる役割を持ちます。一方、ancV1Rはほぼ全ての鋤鼻神経細胞で発現しており、他のフェロモン受容体と共発現しています。このため、ancV1Rは従来のフェロモン受容体とは異なり、あらゆるフェロモン物質の受容やシグナル伝達に関わる機能を持つと予想されましたが、これまでその機能は明らかになっていませんでした。
研究成果
今回研究チームは、ancV1Rの機能を明らかにするために、ゲノム編集によってancV1R遺伝子を欠損させたマウスを作出し、フェロモン感覚とフェロモンによって誘導される行動にどのような影響が生じるのかを調べました。作出したancV1R欠損マウスは正常に育ち、外見上の顕著な異常は認められませんでした。しかしマウスの繁殖中に、ancV1R欠損雌マウスが雄マウスから逃げ周っていることに気づきました。交尾しようと接近する雄マウスに対して、ancV1Rを欠損した雌マウスは、逃げたり、交尾させまいと立ち上がったり、お尻を床につけたりなど、雄を拒絶する行動を強く示したのです(図2)。
雄の性行動を拒絶する ancV1R 欠損雌マウス
マウスでは、雄が分泌するフェロモンに雌が惹きつけられ、生殖行動が促進されることが知られています。そこでまず雄と雌の尿を同時に提示し、雌マウスがどちらに誘引されるかを調べました。通常、雌マウスは雄の尿の匂いを好むので、雄の尿を嗅いでいる時間が長くなります。しかしancV1R欠損雌マウスでは、雄と雌の尿を嗅いでいる時間に差はなく、雄マウスを雄として認識できなくなっていることがわかりました。
次に、フェロモン感知の異常を神経細胞レベルで解析するために、様々なフェロモン刺激を与えた時に活性化する神経細胞の数と電気的応答の強さを調べました。その結果、ancV1Rを欠損させたマウスでは、どのフェロモンの場合でも活性化される神経細胞の数が減少し、フェロモンに対する応答性が低下することがわかりました(図3)。さらに、神経応答を詳細に解析するために、電気生理学的手法[用語4]によって神経細胞の電気信号を解析したところ、ancV1R欠損マウスでは、フェロモン物質に対する神経細胞の感受性が低下していました。つまりancV1Rがフェロモンを感知する神経細胞の応答性と感受性を高める機能を有することがわかったのです。
フェロモン物質が神経細胞に感知されると、その情報は電気信号に変換され、脳内での情報処理を経て、特定の行動を動物に誘導します。では、ancV1Rの欠損によって減弱した神経細胞のフェロモン応答は、脳の中でどのように処理されて異常な行動につながったのでしょうか?研究チームはまず、雄尿のフェロモンに対して活性化される脳神経回路を解析しました。その結果、ancV1R欠損雌マウスでは、雄への嗜好性に関わる扁桃体内側部[用語5]の活動が低くなっており、これが雄尿への誘引性を低下させた原因であることがわかりました。次に、ancV1R欠損雌マウスを雄マウスと直接接触させて脳内の神経活動を解析した結果、ストレスに関連する脳領域である外側中隔[用語6]の神経活動が顕著に増加し、さらに血中のストレスホルモンの濃度も上昇していることがわかりました。これらの結果から、ancV1Rの欠損によってフェロモンの感知能力が低下した雌マウスでは、雄マウスを交尾相手として認識できなくなり、雄の性行動を拒絶し、同時に雄のアプローチ(交尾行動)をストレスに感じるようになったと考えられます。
社会的インパクト
本研究は、多くの動物に共通するancV1Rが、フェロモン感覚の基盤となる重要な分子であることを初めて明らかにしました。ancV1Rには様々なフェロモン物質に対するフェロモン受容神経細胞の応答を増強する機能があり、欠損するとフェロモン感知能力が低下し、異性の認識や性行動そして母性行動など、フェロモンによって誘導される動物行動に異常が生じます(図4)。古代から現代に至るまでの広範な脊椎動物に共通して存在するancV1Rの機能の解明は、フェロモンによって成り立っている動物社会や動物行動の理解に大きく寄与する発見といえます。
今後の展開
今回の研究では、ancV1Rがどのようにフェロモン感知能力を高めているのか、その分子メカニズムの詳細は明らかになっていません。ancV1Rがフェロモン感覚を有する全ての動物種で保存されていることを考えると、種を越えたフェロモン感覚の共通原理となる、未知の感覚メカニズムが関わっている可能性があります。それを理解するには、ancV1Rがどのようなメカニズムで様々なフェロモン物質の感知に関わっているのかを分子レベルで解明する必要があります。
またancV1R欠損マウスの表現型には、「フェロモン応答が完全に消失するのではなく低下する」という、従来のフェロモンシグナル伝達分子を欠損したマウスにはない特徴があります。今後、ancV1R欠損マウスの示す様々な行動や脳神経系の活動を同時に解析していくことで、フェロモンと動物行動の間を結ぶ脳内でのフェロモン情報処理機構の理解に貢献するものと期待されます。
付記
本研究は文部科学省(MEXT)/日本学術振興会(JSPS)科学研究補助金、ドイツ研究振興協会の支援を受けておこなわれたものです。
用語説明
- [用語1]
- フェロモン:動物が分泌し、同種他個体に特定の行動や生理状態を誘導する物質の総称。
- [用語2]
- 鋤鼻器(じょびき):鼻腔の下部にあるフェロモンを感知する感覚器官。一般的な匂いを感じるための嗅上皮(いわゆる鼻の粘膜)とは分離した器官として存在する。水生哺乳類や霊長類など一部の脊椎動物の鋤鼻器は退化している。
- [用語3]
- 偽遺伝子化:ゲノムDNA上の遺伝子配列に挿入・欠失・置換などの変異が生じタンパク質をコードしない状態になったこと。
- [用語4]
- 電気生理学的手法:神経細胞が活性化した際、発生する電気的な応答を電極で記録する方法。
- [用語5]
- 扁桃体内側部:鋤鼻神経細胞から二次的な入力を受ける高次中枢領域。雌マウスの示す雄の尿に対する誘引性にはこの領域の活性化が必須である。
- [用語6]
- 外側中隔:マウスがストレスを感じた時に活性化する脳領域の一つ。この領域の活性化は雌の性行動を抑制する。
論文情報
- 掲載誌:
- Current Biology
- 論文タイトル:
- Impaired pheromone detection and abnormal sexual behavior in female mice deficient for the putative vomeronasal receptor ancV1R
- 著者:
- Hiro Kondo, Tetsuo Iwata, Koji Sato, Riseru Koshiishi, Hikoyu Suzuki, Ken Murata, Marc Spehr, Kazushige Touhara, Masato Nikaido*, and Junji Hirota*
研究者プロフィール
近藤 宏 Hiro KONDO
東京科学大学 生命理工学院 生命理工学系 大学院生
(現バイオサイエンスセンター研究員)
研究分野:分子神経科学・化学感覚・実験動物
二階堂 雅人 Masato NIKAIDO
東京科学大学 生命理工学院 生命理工学系 准教授
研究分野:進化生物学・多様性生物学・分類学
廣田 順二 Junji HIROTA
東京科学大学 副理事・副学長
生命理工学院 生命理工学系 教授
研究分野:分子神経科学・化学感覚・ゲノム工学
東京科学大学 生命理工学院
岩田哲郎 助教 Tetsuo IWATA
輿石りせる 学士課程学生(研究当時)Riseru KOSHIISHI
東京大学大学院 農学生命科学研究科 応用化学専攻
佐藤幸治 特任准教授 Koji SATO
村田健 特任助教 Ken MURATA
東原和成 教授 Kazushige TOUHARA
株式会社digzyme
鈴木彦有 博士 Hikoyu SUZUKI
アーヘン工科大学 Institute for Biology II, Department of Chemosensation
Marc Spehr教授