ポイント
- 日本の物理学で重要な位置を占める「物性物理学」の分野が、いかにして形成されたのかを分析
- 「物性物理学」の初期の名称である「物性論」という語を追跡することから、分野形成における動的過程を描き出すだけでなく、「ことば」の役割にも着目
- 学問分野の形成を、理論や制度の発展だけでなく、「何をどう呼ぶか」という名称や分類の実践から捉える科学史研究の可能性を提示
概要
東京科学大学(Science Tokyo) 環境・社会理工学院 社会・人間科学系の河野洋人博士後期課程学生(研究当時、現 国立科学博物館研究員)は、日本独自の学問分野「物性物理学」がその初期にどう形成・変容してきたかを明らかにしました。
本研究は、かつて日本の物理学で物質を扱う研究分野を指すのに用いられていた「物性論[用語1]」という、今日の「物性物理学」につながる語に注目し、その意味が時代とともにどのように変化し、学問分野として定着していったのかを明らかにしたものです。学問分野の形成を、理論の発展や研究者共同体の形成だけでなく、「名前」や「ことば」の歴史から捉える、という新たな視点を提示しています。
本成果は、6月1日付で米国科学史学会(History of Science Society)が発行する科学史分野を代表する国際誌「Isis」に掲載されました。
背景
現在、日本の物理学では、物質を研究する領域に対して「物性物理学」という呼び方が広く用いられています。しかしこの語には、英語などの外国語にそのまま対応する訳語がないことが知られています。“Condensed Matter Physics(凝縮系物理学)”や“Solid State Physics(固体物理学)”がその対応語として用いられることがありますが、その範囲は重なるにせよ一致するものとは言えず、成立の経緯も異なります。こうしたことから、「物性物理学は日本の物理学に独自である」としばしば語られてきました。
一方で物性物理学は、現代日本の物理学において重要な位置を占めています。この分野では、基礎から応用・実用に至るまで顕著な業績が数多く挙げられてきました。現在でも、物理学の中で研究者人口が最も多い分野であるとされています。
しかし、この分野の成立過程については、これまで科学史の中で十分に研究されてきませんでした。
研究成果
本研究は、この物性物理学の成立過程を科学史的な観点から探究したものです。今日の物性物理学につながる「物性論」という「ことば」を追跡し、その範囲や意味内容の変化を追うことで、この分野が形成されたプロセスを、多様なアクター(研究者、学会、大学・研究機関など、関係する人や組織)とともに動的に描き出しました。
本研究では、まず「物性論」という語が近代日本において教育的文脈で用いられていたこと、そして1940年代に入ると、新たな研究動向を指す言葉として再編されていったことを示しました。ただし、「物性論」はこの時に、明快な定義を持つ1つの完成した分野として出発したわけではありませんでした。戦時期の理論物理学者たちによる統計力学的研究群を1つの母体としながらも、実際にはこれに限られない多様な研究群を包摂していきました。
本研究は、この過程で「物性論」に与えられた位置付けの重要性を強調しています。すなわち1940年代半ばごろから、物理学者のあいだで、「物理学の研究は『素粒子論』と『物性論』の2つに大別される」などとする言説が見られるようになります。こうした位置付けが教科書・専門書から研究・教育の制度設計、国際学会のプログラムにまで用いられるなかで、「物性論」に物質に関わる多様な研究領域が紐づけられるとともに、この語が広く定着していくこととなりました。
また本研究は、「物性論」という語を、単に学問分野を指す名前としてではなく、分野の形成そのものに関与する歴史的要素として位置づけています。研究者たちがこの語をどのような研究活動と結びつけ、どのような分野との間に境界を設定し、また国際的な文脈でどのように翻訳しようとしたのかを検討することで、学問分野が言語的・制度的実践の中で形づくられていく過程を明らかにしました。これにより、科学の分野形成を「ことば」の変化と定着から捉える科学史研究の可能性を示しました。
社会的インパクト
本研究は、学問分野が研究内容の発展だけでなく、「何をどう呼ぶか」という名称や分類の実践を通じて形づくられることを示しました。科学は国際的な営みである一方、その分野の名称や分類には、研究実践を取り巻く制度的・社会的状況といったローカルな(地域的)文脈が関わっています。「物性論」という語の歴史をたどることで、本研究は、科学の国際化のなかでも、ローカルな文脈が学問の構造やあり方に影響を与え続けることを、具体的に明らかにしました。こうした視点は、新しい研究領域が次々と生まれる現在においても、分野の名称や分類がどのように形づくられるのかを考えるうえで、重要な示唆を与えうるものです。
今後の展開
本研究は、科学史研究において、学問分野をあらかじめ存在する自明な枠組みとして扱うのではなく、それ自体が歴史的に形成された対象であると捉える視点を示すとともに、「ことば」への着目という具体的なアプローチを提案しています。これを応用することにより、さまざまな分野において、その動的な過程や多様なアクターに光が当たることが期待されます。
また本研究が提起する視角は、広い理論的含意を持っています。たとえば、科学史研究における比較の方法にも示唆を与えます。従来、各国の科学史を比較する際には、同じ分野名のもとで研究活動を比較することが多くありました。しかし本研究は、そもそも何が1つの分野として名づけられ、どの範囲がその名称の下に含められるのか自体が、ローカルな文脈によって異なりうることを明確に示しています。今後、この視点を他国や他分野に広げることで、国際的に共有された科学の歴史の背後にある、翻訳・分類・制度化といったプロセスをより適切に捉えることが期待されます。
なお、本成果は、理工系分野を中心とした研究機関である本学が、人文・社会科学の研究においても高い水準を有しており、国際的な学術発信を行なっていることを示すものでもあります。科学の専門分野がどのように形成され、社会や制度とどのように関わってきたのかを問う研究は、今後の科学と社会の関係を考える上でも大切です。こうした学問の重要性を、広く社会の皆様に知っていただく契機となることも期待されます。
付記
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業(JP19J22731、JP23K00270)および米国物理学協会(American Institute of Physics)Grants-in-Aidの支援を受けて実施されました。
なお河野研究員は、本研究に関連して第20回(2026年)日本物理学会若手奨励賞を受賞しています。
用語説明
- [用語1]
- 物性論:日本の物理学界において、物質の研究を行う領域を指して用いられてきた語。現在は「物性物理学」と呼ばれている。
論文情報
- 掲載誌:
- Isis
- タイトル:
- Coining a Discipline: The Formation and Perpetuation of a Japanese Branch of Physics of Matter
- 著者:
- Hiroto Kono
- DOI:
- 10.1086/740958
研究者プロフィール
河野 洋人 Hiroto Kono
国立科学博物館 理学研究部 研究員
研究分野:科学史
関連リンク
東京科学大学 環境・社会理工学院/リベラルアーツ研究教育院
教授 調 麻佐志